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東日本大震災のボランティアとして、宮城県石巻市の市街地に入った井上岳一さん(51)は4月、地元の団体から相川地区での活動を依頼された。唯一の道路が寸断され、1か月も満足に支援物資が届いていなかった地域という。
元々は、旧十三浜村の一集落。昭和期に町になり、2005年の大合併で石巻北端の市域になった。日本総研で地域社会について研究する井上さんは、孤立した小さな集落の苦境を想像するだけで胸が痛んだ。物資もなく、ひどい状況に陥っているに違いないと。
車に食料や衣類、トイレットペーパーなどを積み、仲間と現地を目指した。自衛隊が応急作業を終えたばかりの道路脇には、がれきの壁ができ、壊れた舟も横たわっていた。周辺の海岸は大量のごみで埋め尽くされ、美しい三陸の面影はどこにもなかった。
海を背にすると、すぐ山が切り立つ。相川地区はそんな典型的な東北の集落だった。地域住民は約350人。沿岸部で暮らす14人が津波の犠牲になり、60戸近くが流されたという。井上さんは、家を失った住民たちが身を寄せているという高台の保育所に向かった。
見るものすべて、目を疑うしかなかった。
出入り口には、なみなみと水をためる大きなタンクがあり、パイプから絶えず水が流れ込んでいた。水は飲料にも洗顔にも手洗いにも使われ、がれきで作ったかまどから、炊きたてのご飯の匂いが漂ってくる。
風呂は? 石巻市街地の避難所では、週1度しか風呂に入れず、不衛生やストレスが顕在化していた。聞いて驚いた。相川地区では、必要な水はすべて山から引き、ワカメ養殖のタンクを改良した湯船で、みんなで交代しながら風呂につかっているというのだ。届けた支援物資の中で喜ばれたのは、意外にも、東京から持ってきた文庫本の小説や絵本だった。
孤絶した集落の住民が毎朝、作りたてのおにぎりを食べ、温かいみそ汁をすすり、風呂に入る――。こんなことがどうしてできる? 井上さんは「田舎の底力」に、戦慄のようなものを覚えた。
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生きる覚悟と知恵 結集
漁村の高台に200人。「物がなかった昔を思い出そう」
地域の底力が試される。2011年の東日本大震災とは、そういう出来事でもあった。宮城県石巻市の北端に位置する北上町十三浜相川は、海と山と人の地力で、危機に立ち向かえることを証明した。人はだれでも、自分にしかできないことを持っている。相川地区の人たちが特別だったのは、それを次々と実行に移したことだ。
がれきで自炊 発電も
ワカメやヒジキの養殖用ロープなどが浮かぶ相川地区の小さな湾が一変したのは、3月11日午後3時40分頃。90世帯約350人が暮らす集落が津波にのまれ、55戸が流失、8人が亡くなり、6人が行方不明になった。
4月に開所予定だった高台の相川保育所に住民が続々と集まってきた。数は、着のみ着のままの高齢者ら200人以上にふくれ上がった。雨風はしのげたものの、通信は途絶、内陸へつながる橋は落ち、その先にある市の出先機関・北上総合支所も全壊した。助けが来ない? 孤立状態に陥ったことがわかってくると、住民の不安は一気に高まった。
「物がなかった昔を思い出そう。ここはもとから陸の孤島なんだ、大丈夫」
自治会長の鈴木学さん(76)はあえて明るく振る舞った。会長になってまだ1年だが、地元の郵便局で長く勤めたから、住民はほぼ知り合い。退職後、災害対応を学ぶ機会もあった。「俺のこれまでの人生は、ここでみんなの役に立つためにあったのかもしれない」と腹をくくった。
小さなことも一つずつ、みんなで解決していった。
まずトイレ。避難生活の初期は、各自が思い思いの場所で用を足していた。臭いが気になり始めた頃、「昔のぼっとんトイレを作ろう」との意見が出た。避難所から数十メートル離れた空き地に、男女別、ベニヤ板の仕切りもついたトイレができたのは、その日のうちだった。
電力と火力の調達も素早かった。たまたま相川地区を訪れて震災に巻き込まれた水道業者が発電機を持っていた。壊れた漁船から抜き取った燃料を使い、電灯をともした。煮炊きは、乾かしたがれきの木材を燃やした。
浴槽 ワカメのタンク
「山から水を引いてくる」と言い出したのは、佐々木忠彦さん(77)だった。漁村は海ばかり向いているのではない。間近に山がそびえ立つような東北地方の場合は特に。佐々木さんは若い頃、地元の高台で稲作を経験していたので、水源の場所を知っていたのだ。
知り合いに声をかけ、農業用水を引くために使う長さ2~4メートルのパイプを数百本集めてつなぎ、山奥のわき水に固定した。震災発生から1週間ほど後、生で飲めるほど澄んだ水がパイプを伝って、直線距離で約2キロ先の保育所に届いた。
念願だった水が確保できると、「風呂もできんかね」と希望がわいた。被災した浜には、もってこいの用具が転がっていた。養殖ワカメをゆでるタンクとボイラーだ。ベニヤ板で簡単な脱衣所も設け、4~5人が入れる立派な「共同風呂」ができあがった。
食料は豊富だった。津波を免れた保育所近くの住民が、米や調味料を提供してくれた。1933年の昭和三陸津波で家屋が流され、高台移転した人々だ。漁師たちが各自持っていた冷凍庫にもホタテなどの魚介類があり、「電気が止まって傷む前に」と、避難直後に振る舞われた。
ボランティアとして現地に入った日本総研の井上さんは、いまも当時の衝撃が忘れられない。「自然の豊かさと漁村の人々の
住民は徐々に親戚宅や仮設住宅へと移り、相川保育所は7月15日をもって避難所としての機能を終えた。
<おかげさまで閉所します。支援をありがとうございました>。お礼状を関係先にすぐ出せたのは、当時中学生だった佐々木真智子さん(23)らが事務を引き受け、支援物資が届くたびに住所などを記録していたからだ。
「大人たちは避難所の運営やご飯作りに忙しくしていて、自分もできることをやるのが当然だと思った」と佐々木さんは振り返る。物資の配布から食事の配膳まで、毎日めまぐるしく働いた。いい思い出だなんてけっして言えないが、ふと、こう考えることがある。「水の引き方も、風呂の作り方もインターネットに載ってないけど、実は一番大事なことなのかも」
避難所が閉まった翌8月、相川保育所は当初の予定より4か月遅れで開所した。現在、14人の子供たちが通っている。
全国3割 孤立恐れ…「通信、救助の備え重要」
東日本大震災で発生した津波で、東北沿岸部を中心に、学校や病院、高齢者施設などが孤立状態に陥った。自衛隊が救助した人数は1万9286人に上る。被災したエリアが広大だっただけに、1995年の阪神・淡路大震災の157人、2004年の新潟・中越地震の1330人、18年の西日本豪雨の2284人、19年の台風19号の2040人を大きく上回る。
内閣府と自治体の調査で、平野部を除く全国の過疎集落約6万5000か所のうち3割程度が、災害時に孤立する可能性があることが判明している。想定は、土砂崩れや液状化現象などだ。集落の孤立が問題になった中越地震の翌年から、内閣府が4年ごとに調査したが、この傾向は変わらなかった。
最終13年度の調査によれば、孤立する可能性がある集落のうち、公民館や集会所など避難施設を持つのは、農業集落で66%、漁業集落で80%。水の備蓄は、農業集落で5%、漁業集落で18%だった。宇都宮大の近藤伸也准教授(防災マネジメント)は「津波の恐れがある分、漁業集落の方が備えが手厚いのでしょうが、どちらも十分とは言えない」と警告する。
国の中央防災会議も、やはり中越地震以降に相次いだ地方の震災を重視し、10年に専門調査会を設置、12年に地方都市の防災に特化した報告書を出している。この際、孤立する可能性がある集落の備えとして強調されたのは、「衛星携帯電話や非常用発電機の配備と訓練」「のろしや地上に字を書くなど、救助を求める手段の訓練」「ヘリコプターが離着陸できる場所のリストアップ」などだ。
地方では、住民同士の交流が頻繁で、山や海で食料を調達できるというメリットは確かにある。近藤准教授も「地方は都市部より災害に強い側面がある」と認めながらも、「高齢化率が高いので、医療や介護へのネットワークが絶たれると、一気に窮地に陥るおそれがあります。住民それぞれが、地域内で完結していないサービスについて、事前に対策を考えておくのが最も重要なこと」と指摘した。