羽生結弦という存在がこの時代にある奇跡…RE_PRAY「もはや余計なものをつけることのない「芸術」の創造」ストレートに存在・命を問いかける旅へ

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

目次

もはや余計なものをつけることのない「芸術」の創造

 私はいま、僥倖の中にある。

 文化の創造、歴史の創造という僥倖の中に。

 それは、羽生結弦によって創造される、時代の僥倖である。

 もちろん、私の僥倖である。羽生結弦と共に生きる人々それぞれに、それぞれの「僥倖」があったろう。

 『Yuzuru Hanyu ICE STORY 2nd RE_PRAY』(以下『RE_PRAY』)、それは新たなフィギュアスケートの、いや舞踏芸術、もはや余計なものをつけることのない「芸術」の創造だった。

 ひいては文化の、そして歴史の創造となる。

 大げさではなく、羽生結弦の『RE_PRAY』とは私たち人類が目にする創造という神話、古代ギリシャのアスレーテース(Αθλητές、アスリートの語源)よりはるか以前から受け継がれるそのアスリートとしての創造、芸術の創造こそ、この日本の現代、羽生結弦という存在である。

それにしても、羽生結弦という人は嘘のつけない人だ

 報道としての情報やエピソードなどは他者に委ねる。ここでは『RE_PRAY』の芸術的考察と文化的、社会的考察、そして人間学としての羽生結弦という存在の考察を進める。まずは私の芸術的定義から入ろうと思う。

 無論、ゆくゆくエンタメとしての『RE_PRAY』に触れる際は大いに脱線しよう。各プログラムも含め、このストーリーを読み解くことは難しく、決して回答はひとつやふたつではない(だからこそのストーリーとしての「RE_PLAY」なのだが)。各世代におけるゲーム本編やゲームミュージックも意図的に配置されている。

 もちろんそうしたサブカルチャーとしての「私たちという集団と羽生結弦が共有する文化とその価値」もまた、羽生結弦の魅力でもある。なぜなら羽生結弦は「時代の子」でもあり、だからこその「歴史の人」だから。

 それにしても、羽生結弦という人、嘘のつけない人だ。

表現するという以前に、羽生結弦がダダ漏れ

 ひどく嘘がつけない。とくに自分自身に対してまったく嘘がつけない人だ。あまりに真っ正直で、ましてやそれが羽生結弦という存在を通して露呈する。表現するという以前に、羽生結弦がダダ漏れなのだ。誰にも嘘をつくことができない。真正面から自分を晒す。

 こうした人をときに「天才」と呼ぶ。

 しかしこのダダ漏れの羽生結弦は、私たちの日常という平板な空間に強烈な違和感をもたらす。美しいとか、かっこいいとか、優れているとか、そうしたウェルメイドな表現を超越して、ある種の違和感をもたらす。

 それは「共感性羞恥」と呼ばれる。

 共感性羞恥は一般的な解釈とするなら他者の恥を自分の恥のように共感してしまう心理状態を指す。しかし芸術においての共感性羞恥はそれとは異なる高次の「共感」である。ここをごっちゃにしてしまうと旧来の通俗的な「イタい」という冷笑になってしまう。

優れた芸術とはこの共感性羞恥を必ず内包している

 優れた芸術とはこの共感性羞恥を必ず内包している。創造主のダダ漏れの感情が、告白が、自分という人間そのものが露呈する。

 ここで言うところの感情とは「識」あるいは「末那識」にとどまらない「阿頼耶識」の階層である。人間としての存在、根源、意識しない識のさらに底にある識、である。羽生結弦という存在の「阿頼耶識」が露呈するとき、それは共感性羞恥の極致を観客に与える。観客はそれぞれのイマジネーションによって共感性羞恥を智覚することだろう。

 独り、テレビゲームで遊ぶ、羽生結弦

 遊んでいるのに嬉しそうではないように見える。真剣、というにも表情はそれではない。羽生結弦の真剣とはこのような類ではない。

 なんだろう、かつての羽生結弦少年ということか、それとも、現在の羽生結弦なのか、もしくは、羽生結弦の中の、もうひとりの羽生結弦なのか。

 敵を倒す、倒す、倒す。それが正しいのか、間違っているのか、他に道はないのか、しょせんはゲーム、しかしゲームをプレイしているのは羽生結弦、それを選んでいるのは羽生結弦、いや、ゲームの羽生結弦に選ばされているのか、それはゲームの羽生結弦なのか、現実の羽生結弦という「僕」なのか。

その現し世と偽りの世、その狭間にある幽世とをさまよい続け、選び続けてきた

 そうしてコマンドを選択してゆく。独り、テレビゲームに没頭する、羽生結弦という「人」の姿。

 なぜだろう、世界的なスーパースターであるはずの羽生結弦であっても、私たちは共感性羞恥を智覚する。その万能感に没頭する姿がそうさせるのか。ゲームの中ではいくらでも自分をやり直せる。失敗しても現実の自分は傷まないし、死なない。落ち込むことはあるかもしれないが所詮はゲーム、またやり直せばいい。

 羽生結弦はこの当たり前を、当たり前を思わずに、疑問を抱き続けてきたということか、それを自身を通して赤裸々に会場に、社会に投げかける。

 「みなさんは、何を選ぶだろうか」と。

 羽生結弦にとってもわからない。ゲームだからこそ、繰り返せる「RE_PLAY」だからこそ踏み出せる世界もある。

 羽生結弦はその現し世と偽りの世、その狭間にある幽世とをさまよい続け、選び続けてきたのだろう。その結果が現在の羽生結弦、しかしその選択を別の選択とするならどうだったか、たったひとつの選択でも違っていたなら、現在の羽生結弦ではない羽生結弦となる。

 現し世とはこの世、幽世とは黄泉を指す。偽りの世とは私があえて使うのだが、この語源としては日野富子の歌「偽りのある世ならずは ひとかたにたのみやせまし人の言の葉」から採っている。

 応仁の乱を招いた悪女とされる日野富子だが、彼女は一途に愛を貫く織姫と彦星になぞらえて(詠歌は七夕の日とされる)詠んだ。現代人になぞらえて訳すなら、

「偽りの世でないのなら人の言葉を信じてみたいわ、でも偽りの世だから私は信じることができないの」

 というところか。

『RE_PRAY』に関しては極めて形而上学的な構築

 つまり、ダダ漏れの感情だ。

 まさしく共感性羞恥の極みだが、羽生結弦が独り、テレビゲームで遊ぶその姿も、問いかけもまた、こうした現し世と偽りの世、その狭間にある幽世の延長線上にある。

 羽生結弦は成功者だ。それは間違いない。しかし選択をひとつでも違えた羽生結弦なら、果たしてどうか、繰り返しても羽生結弦でありたいはずの羽生結弦は本当にそうした羽生結弦でいられたのか、現在の羽生結弦は、どうか。

 それはゲームの「PRESS START」で始められる程度のものなのか、「RE_PLAY」で足りるものなのか。

 羽生結弦という人は基本、弁証法の人のように思うが、この『RE_PRAY』に関しては極めて形而上学的な構築になっていると思う。ストレートに存在を問いかける。シンプルに命を問いかける。ゆえに『RE_PRAY』の共感性羞恥は成功している。

 これは羽生結弦が語った部分でもあるが、「今日明日というものを生きていくにあたっての選択肢の連続」「本当に人生というものをやめない限りは明日は続いていく」というメッセージの裏には、こうした深い思想性と哲学的な問いかけが包含されている。

 それこそが、RE_PRAYとRE_PLAY、である。

羽生結弦という存在がこの時代にある奇跡

 表題である『RE_PRAY』は「再びの祈り」とでも訳そうか、「繰り返しの祈り」「何度も祈る」でもいいだろう。ストーリー中のRE_PLAYは直訳なら「繰り返し遊ぶ」となるが、コンピュータゲーム用語としては「ゲーム内容の再現」ということになる。文章のリプレイなら小説仕立ての物語として書かれるものであり、ゲームデータとするなら自身のプレイ内容を記録(セーブ)したものを呼び出す機能を指す。この二つの「RE」が重要な命題であることは明白だが、羽生結弦という存在の今回の問いこそ、この二つの「RE」にある。

 羽生結弦のフィギュアスケートとして、羽生結弦のストーリーとしての初の旅路、『RE_PRAY』ツアーはこうして幕を開けた。

 これだけの物語を芸術家として創造し、アスリートとして演じ、表現者として訴えかける羽生結弦という存在がこの時代にある奇跡、そして同時代にあるという僥倖。私も私なりのRE_PRAYとRE_PLAYを読み解く長い旅に出かけることとしよう。

 まずは羽生結弦とサブカルチャーの解読、そして精神の反乱きわ立つ衝動の権化、『鶏と蛇と豚』だ。

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

このカテゴリーの最新記事