●攝津 せっつ 地名由来
摂津はもと津の国。
さまざまの津の国を集め合わせて摂津。

●文字「攝」
音読み
呉音 : ショウ(セフ)
漢音 : ショウ(セフ)
慣用音 : セツ
訓読み
おさ-める、かね-る、と-る

摂政=政治を摂る=執ること。
摂取=[名](スル)
1 取り入れて自分のものにすること。また、栄養物などを体内に取り入れること。「新知識を―する」「ビタミンCを―する」
2 仏語。仏が衆生(しゅじょう)をおさめとって救うこと。

つまり「摂津」とは、淀川沿線の多くの津で成り立っていたばらばらの村落、群落を、取り集めて、集合国家にした場所。

●歴史
「摂津・河内・和泉の三国の国境は、現在の堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、明治4年(1871年)に和泉国との国境は堺大小路から大和川に改められ、一部が和泉国に編入された。」

●沿革
「易林本の『節用集』によれば摂津国は「南暖北寒、故五穀先熟、魚鹽繁、大上國也」と記されており、農漁業が盛んで豊かな地勢であったことが分かる。

古代瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある難波津があり、津国(つのくに)と呼ばれた。7世紀の天武朝は、国司を置く代わりに、畿内の外港と副都難波宮を抱える要地である津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた。摂津職は京官とされ、大夫・亮・進・属の四等官で構成された。奈良時代末には副都の実を失っていたため、793年(延暦12年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。「摂津国」は、前身の摂津職から引き継いで「せっつのくに」とも呼び、また元の津国の訓みそのままに「つのくに」とも呼んだ(和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令(好字二字令)により摂津国と改称されたという説もある)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD


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摂津の旧字体は攝津で、この攝津は手偏に耳が三つである。
この地を今も三島と呼ぶ理由のひとつにこの耳起源を挙げておきたい。
耳とは古代の官職名である。
三島には耳とつく地主が何人もいたようで、まず三島溝咋耳命は耳目に聞こえている。
「みぞくい」とは溝=水路、咋とは杭を立ててそこを開拓し領地とした先住氏族の長。
だから耳はこの地域の首長の役職名である。
ところが耳は「魏志」では北部あるいは南部九州の官職名でもあって、投馬国の官職に「みみ」とある。
長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である 。
また日本神話では「みみ」がつく神や人物が、最高は天孫の父・アメノオシホミミから人間は聖徳太子にいたるまで、沢山登場する。その多くが南九州を出自とする神武天皇の最初の妃の家柄から出ていることになっている。
つまりみみ」を長とする氏族が、いかに渡来して来た天皇一族に援助したかをすべてが物語っていると思える。
三島地方の三島溝咋耳も摂津三島で

●溝咋。溝杭耳。三島溝咋。 
「ホノアカリムメヒトのスケ・イクタマ姫とウチメ・イクヨリ姫の父。 また、ツミハの妻タマクシ姫の父。 
三島神社の「三島」はこの人に由来すると思われる。 
ニニキネがアワのミヅホ宮に都を移した時、 ハラアサマ宮にはムメヒト(ホノアカリ)を残し、アメノコヤネに政を執らせる。 オオモノヌシのコモリはニニキネに同行する為、ミゾクイを副モノヌシとしてハラの守りに当たらせた。 ホオテミの時、オシクモ・ヒタカヒコと共にハラアサマ宮でホツマ国の政を執る。

滋賀県高島郡安曇川町三尾里、箕島(ミシマ)神社 。
大阪府茨木市五十鈴町、溝咋(ミゾクイ)神社。
静岡県掛川市初馬、阿波々神社(アワワ)。

★『書紀』 大山祇神の子。 
★溝咋(ミゾクイ)神社の近くには三島鴨(ミシマカモ)神社がある。 
■三島大神はツミハヤヱコトシロヌシだと言われている、ツミハはミゾクイの娘婿だからミシマを名乗っても不思議はない。
■コモリの副モノヌシ(連ではなく)ということは、コモリの子である可能性が高い。
■ツミハとは『はらから』だという記述があるので、コモリの子のミノシマ(ミシマ)と同一人物と考えたい。
http://gejirin.com/src/Mi/mizokui.html

●三島神社
「越智氏の奉祀する大山積神は、「二十一社記」に賀茂社と同じく天神に属するとあり、伊豆の三島大社に賀茂氏系の言代主神と合祀されることから、賀茂氏との親類関係が窺える。言代主神は越智氏の入り婿ではなかったか?
余談だが、愛媛県西条市にある伊曽乃神社社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、吉備氏系の倭建命や、讃岐氏の祖の神櫛別命、空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命の異母兄弟にあたる。また、倭建命と大吉備建比売(おおきびたけひめ)の子、十城別王(とおきわけのみこ)が、伊予別(いよわけ)君の祖となり、伊予を本拠地としていたことから、吉備氏との関係も窺える。御村別・伊予別の両氏は、後に「和気氏」を名乗った。」
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ochi.htm


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簡単にとりまとめてしまうと・・・
三島とは瀬戸内の海人族が祭る神であり、そのルーツは南九州であるとなり、「耳」とは聖職名で、南九州海人の長を示す。摂津三島の地名に筑紫津や安満山・阿武山がある。その「あま」とは海人である。
多くの津を形成していた海人たちが淀川には多く先住していた。
そう考える理由のひとつに、各地の古墳から出てくる南九州から南海の貝がある。
男王はゴホウラを、女王はイモガイを装身具・威信材としたと考古学は言っている。
すると「みしま」とは「耳がいた島(洲)」だったとなる。
淀川の摂津南部には紫金山古墳があり、ここから紫金山型ゴホウラモデルの貝輪が出ている。だからこの王は男性である。
しかも九州に、弥生時代から深く縁がある人であろう。
滋賀県の雪野山古墳被葬者も同じく男王で九州。

      「南部九州のゴホウラ貝輪は、形態変化を遂げながら北部九州に広まり、その後近畿地方へ
      と伝播していることが考古学上でも判明している。その原因の一つに社会的変動があったこ
      とを推定する説は少なくはない。弥生時代に北部九州に伝わったゴホウラ貝輪は、弥生時代
      後期前半に有鉤銅釧となって姿を消し、そのほぼ同時期に形の異なるゴホウラ貝輪が南部九
      州に出現、その鍬形石に似た貝輪は、「近畿政権」のシンボルとなる鍬形石に、その祖形と
      して引き継がれたということになる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/rqugandokoro/32938736.html

つまりごほうら貝のブームは二度あって、一度目のブームで、北部九州で弥生甕棺氏族の威信材だった貝輪が、有鉤銅釧となって畿内の三島の紫金山へ向かって、そこで立ち消えになる。
次に南九州から直接、大和地方へ入って今度は鍬型石や貝釧となって大和の氏族の威信材となった。それが古墳時代の中心となって、大和では隼人の持ち込んだ鍬型石が多く残る。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/archive/2011/1/25

ということは紫金山型とはつまり北部九州型モデルのコピーであり、大和型とは南九州モデルの改良型だということになるだろう。ということは淀川の三世紀の古墳である紫金山の人々は北部九州海人であり、鍬型石が出る大和や東海の人々は南部の海人族がいたからだとなる。




紫金山型有鈎貝輪


雪野山・竹並型鍬型石



ということは紫金山がある淀川沿線摂津三島の海人地名は三世紀からあって大和よりも古く、北部九州人がやってきた証拠の場所となるので、そこに耳がつく人がたくさんいるのは正しい。同様に南九州や阿蘇に耳がつく人がたくさんいるのは、魏志以前からのことになるからもっとふるい弥生時代のことだろなり、彼らは弥生人なのだから渡来人だとなる。

こうして大和は南部九州人と渡来人、摂津は北部九州の古い弥生人の入ったところという微妙な渡来の違いが浮き彫りになった。

「みしま」は「みみしま」で、みのしまなどと同源地名であろう。


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