修験子栗原茂【其の三十三】小笠原流と甲賀流シノビ衆は表裏一体
9月 9, 2021 9月 16, 2021 修験子栗原茂 戦略思想研究所, 栗原茂
修験子栗原茂
高倉天皇(一一六一~八一)に仕えた滝口武者加賀美遠光の二男長清は甲斐に生まれた。この人が小笠原氏の祖とされる。『平家物語』には加賀美小次郎長清とされ、父遠光の所領小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖光行は長清の弟である。
ちなみに、滝口武者に触れておきたい。薬子の変(八一〇)は真夏の冤罪、昌泰の変(九〇一)は道真の冤罪を記録するが、滝口武者は薬子の変を機にタネがまかれ、昌泰の変を機に歴史に出現する内裏(天皇の私的エリアで御所や禁裏の異称あり)の警護役=御庭番を指す言葉である。
蔵人所は薬子の変を機に律令制に加えたが、当初は令外官で宇多天皇の寛平期(八八九ー九七)に蔵人所の管轄下に滝口武者も置かれた。滝口とは清涼殿東庭北東の御溝水(みかわみず)を指すが、天皇警護に任じられた武者たちの詰所も設けられた。初期の滝口武者には平将門がおり、滝口を姓に創建された家系もあり、加賀美遠光や長谷部信連(能登の加賀八家の一つ長氏の先代)など、天皇の信任これ特殊なケースも生じており、その由来をたどると道真が創始者と思えてくる。
壇ノ浦で平家が滅亡(一一八五)すると、遠光は源氏頼朝が知行した信濃の守護に任じられ、のち遠光の家督を相続した小笠原長清によって領地が固められたとされる。家紋「三階菱」は加賀美氏を継いだもので、三階菱の中に「王」を記す原型は遠光ゆかりの寺院が使うのみともされる。
閑話休題(しばらく・しばらく)、令和三年九月一日の夜半さる筋より、小河原氏の系譜について大筋から述べるようにとの達しが届いた、ゆえに略そうとした原初の部分から述べるとする。
夜半の達しで私は直ちに閃いた、フェイクニュースがマンネリ化した現世にあって、凋落の一途を辿るマスコミのインチキが打ちのめされる、と。天気予報と同じ朝令暮改が険しさを増すなか、その模倣を演じるマスコミが「自民党総裁の辞退」に慌てふためく姿のことである。
私は私の与太話も「そろそろ核心へ及ぶんだね」の達しであろうとも察していた。日本人の源流に関しては既に落合先生が発表されているため、私は「何ゆえ日本人は天皇を必要とするのか」これを解明するしかない。それは反日派の日本人も天皇を必要としているからである。
反天皇派の思考を解くのは容易であり、その思念は親天皇派よりも天皇を必要としており、それは日常的な生活意識にも執着して切り離しようがないのである。反天皇的な振る舞いは自らの拠り所を失いたくない、自らの「メシのタネ」にすがる一念から生じているのだ。
親日派これ必ずしも親天皇派にあらず、反日派これ必ずしも反天皇派にあらず、これを非合理とか矛盾と断じるのは早とちり、この精神構造の心理を解明したのが箕作家のコネクションであり、この有職故実を明示した代表的系譜が小笠原氏である。さらに、その小笠原流を表とすれば、裏は甲賀流シノビ衆ではないか、この私の自負は先を見透かされ「…、大筋から述べるように」の達しで、実に当を得た助言と思うしだいである。ゆえに小笠原氏の成立前までさかのぼることにする。
小笠原氏の祖を輩出する加賀美氏の源流をさかのぼると、応神天皇の御代に美濃(岐阜県)各務郡各務(かがみ)郷を拝領、この地を本貫とした勝(すぐり)のカバネが発祥とされる。いわゆる縄文里帰り組に属するが、同じスグリのカバネを賜与された美濃不破(ふわ)郡栗原郷を本貫とするのが私の祖であり、勝(すぐろ)氏である勝海舟も同じ系譜から輩出されている。
勝氏が百済の帰化人系と決めつけ、西文氏(かわちのふみうじ)の末裔として、大和の勝氏は西漢氏(かわちのあやうじ)の庶家と決めつけるのは、歴史の千切り取りとツマミ食いでしかない。
有職故実を継承するには、口伝か文字その両方を使用するケースが有力であり、国際的に通用する伝承法は有力言語の文字に限定されるが、世界中の言語が流入する日本列島は特色として、縄文期の生活雑器に刻んだ各種の痕跡が見受けられる。それらの痕跡と縄文人のDNAを突き合わせる時代が表面化するのを待つしかないが、生命の本能的属性は縄文期も現代も大差ないから、口伝を重用した縄文期も流入する文字を読み取るのに多くの年季を費やす必要はなかったはず。
ともかく、日本がカバネの世を迎える頃すでに相応の文字が流通した事は想像に難くない。太朝臣安万侶(正五位上勲五等)が元明天皇に古事記(ふることふみ)を謹上(七一二)した時には朝廷が公用語と認証していた事に異を唱える者もおるまい。
賜姓降下(しせいこうか)とは、皇族が天皇から姓(カバネ)を与えられ、臣下の籍に降りる事を意味しており、臣籍降下とも言い俗に賜姓皇族と解されたり、皇女が臣下に嫁ぐ場合は臣籍降嫁とも言われ、現行法では皇籍離脱(こうせきりだつ)の言葉が条規されている。
慶雲三年(七〇六)までの律令では、四世王まで皇親とされ、五世王は従五位下の蔭位が付く王を名乗っており、六世王は王号を得られなかった。以後は歴代天皇から一定の距離を経ると臣籍降下の立場に置かれている。
平安期は奈良期を教訓として、安定した皇位継承を保つため数次の改めが行われ、皇親らへ賜姓を施し、桓武天皇は一世皇親三名を含め百名余に及ぶ姓を与え大盤振る舞いの臣籍降下を行っている。嵯峨天皇も桓武天皇にならっている。やがて皇族に見合う収入ポストが尽きてくる、先細りが続いた皇族の没落がはじまり、地方へ下向そのまま土着して武士や土豪への転身も少なくはなかった。
院政期には公家社会の家格形成が促進され、家格を損なう皇親賜姓が敬遠されだし、嫡流への皇位継承を安定化させるため、庶流の皇子は出家のち法親王の処遇で子孫を絶つ策も講じられた。やがて皇位継承と世襲親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)の相続と無関係の皇族は出家が慣例的な強制執行となり、賜姓皇族の出現は自発的に行われなくなった。
鎌倉期以降において、賜姓されたのち明治期まで存続した堂上家は広幡家のみ、ただし、摂関家を継ぐため、皇族を養子に迎えた例は近衛、一条、鷹司の三例あり、これらは皇別摂家と呼ばれる。
臣籍降下の概念が不透明な上代では、開花天皇(第九代)以降の皇別氏族には公(きみ)のカバネが与えられ、八色(やくさ)の姓が制定されると、応神天皇(第十五代)以降の皇別氏族には大半が真人(まひと)の姓ときどき朝臣(あそん/あそみ)や宿禰(すくね)の姓もみられる。
カバネが朝臣一色になったのは賜姓降下が源氏と平氏に固定されてからである。
嵯峨天皇は自身の皇子三名に皇親賜姓として初(八一四)の源氏を授けた。最終的には皇子と皇女三十二名を臣籍降下させており、源信(まこと)、源常(ときわ)、源融(とおる)は左大臣にまで昇り、源潔姫(きよひめ)は初の摂政藤原良房の正室になり、一方の平氏は淳和(じゅんな)天皇の御代(八二五)に桓武天皇の第五皇子葛原(かずらわら)親王の王女(二世王に相当)に平氏の姓を賜った事に始まり、以後桓武平氏のカバネで呼ばれる王子が続出することになる。
皇紀歴以降のカバネに触れておきたい。
神武天皇の即位に始まる皇紀歴は世紀六六〇年前に当たるが、大王(おおきみ)家すなわち天皇に随従する有力氏族の職掌や地位を表すために用いられた姓(カバネ)は、統治の形態を整えるうえで重要な役割を果たしていった。次第に世襲の称号いわゆる爵位としての性格と、職掌ごとの官職から成る二つの側面が兼ね備えられるようになった。
カバネが制度化される前には、ヒコ、ヒメ、ネ、ミ、タマ、ヌシ、モリ、コリ、トベ、キ、ハヤオなどの使用をみるが、成務天皇(第十三代)の御代に、クニノミヤツコ(国造)、アガタノヌシ(県主)、ワケ(別・和気)、イナギ(稲城)など政権との関係や地位を示す称号が定められ、これらがカバネにも転用あるいは併用されるようになる。
允恭天皇(第十九代)の御代には、キミ(公・君)、オミ(臣)、ムラジ(連)、アタイ(直)、オビト(首)、フヒト(史)、スグリ(勝・村主)などの連臣制が定められ、旧来のクニノミヤツコやアガタノヌシにはアタイ、キミ、オミ、ムラジのカバネが、ワケにはキミのカバネが充当されて、最重要のカバネにはオホオミ(大臣)やオホムラジ(大連)の称号が与えられた。
なお、百済滅亡後に帰朝した縄文の里帰り組のうち旧王族にはコニシキ(王)が賜姓された。
さらに、古代史族の系図をみると、神代から応神朝までは名称にミコト(命)を伴っているが雄略天皇(第二十一代)頃からはカバネを伴った名称に変わっており、混在期も見受けられる。
壬申の乱(六七二)が治まると、天武天皇が制定したヤクサのカバネ(八色の姓)で旧カバネ群は有名無実と化している。八色の姓はマヒト(真人)、アソミ(朝臣)、スクネ(宿禰)、イミキ(忌寸)、ミチノシ(道師)これにオミ(臣)、ムラジ(連)、イナギ(稲城)の旧姓が用いられるが、記した順の序列に変わったので、実際は上位の四姓に連を加えた五姓のみが用いられた。真人の姓は皇親氏族に限られ、朝臣、宿禰、忌寸、連は天皇との距離が近い順への賜与に通例化していった。
奈良期を過ぎるころ八色の姓が形式的なものとなったのは、有力氏族が朝臣一色になってしまった事に要因ありとされるが、公的な制度下でのカバネは明治初期まで命脈を保っている。
明治政府は平民苗字許可令(一八七〇)を公布すると、翌年(一八七一)十月に姓尸不称(せいしふしょう)令を施行して、一切の公文書に姓尸すなわち姓とカバネの表記を禁じて、苗字実名のみを使用すること、壬申戸籍編纂(一八七二)の二段階により、氏→姓→苗字→名字の順で一元化を成し遂げようとしたが、日本国民全員に行き渡ったのは平民苗字必称義務令(一八七五)の法規制が全国津々浦々に根付いてからだった。
(つづく)
【文明地政學叢書第三輯】第八章 大江山系と非大江山系
9月 9, 2021 9月 9, 2021 文明地政學叢書第三輯『真贋大江山系霊媒衆』 戦略思想研究所, 栗原茂
文明地政學叢書第三輯『真贋大江山系霊媒衆』
●もう一つの霊媒衆
大江山の筋の違う霊媒衆にも触れておきたい。奈良県南部の大峰山(おおみねさん)は別称を金峰山(きんぶせん)という。江戸時代中期の皇紀二四三九年(一七七九)光格天皇即位に際して役行者没一一〇〇年遠忌祭の勅命で神変大菩薩の諡号が発せられた。
而して、当の役行者は天武天皇在位中に没したことになり、古事記は天武天皇の勅命により編纂に及ぶため、当時の伝承は官の誦習が基礎であり、神との交接も音声が司配(しはい)したことになる。大峰山脈の主要部諸峰を総称して呼ぶ大峰山(大峯山)は、北部を金峰山と呼ぶ場合に南部の総称として使われる。修験道第一の行法は陰暦四月八日に入るのが通例とされ、熊野から入るのを「順の峰入り」また吉野から入るのが「逆の峰入り」と伝わる風習が慣例とされる。
同二三五一年(一六九一)以来、金峰山頂上の経塚から数次にわたり、大量の経筒、経箱、神像、仏像などが出て発掘も盛んに行われた。吉野の金峰神社は、金山毘古命(かなやまびこのみこと)を祭神として、野山の地主神また金鉱の守護神という信仰の対象とされ、別称では、蔵王権現、かねのみたけ神社、あるいは金精大明神としても知られる。
同じく吉野の金峯山寺は金峰山修験本宗の総本山で、役小角の創建と伝わり、天平年間(七二九〜四九)行基が蔵王権現を祀るともいう。行基(六六八〜七四九)は百済王の子孫といわれ、姓氏は高志(こし)、和泉(大阪南西部)の人といい、元興寺にて得度した後に諸国行脚し、その途次で道路の補修、堤防の築造、橋梁の架設、貯水池の設置など全国で多くの事績をこなし、寺院の建立も少なからず、東大寺の大仏建立に際しては、勅命を受け奉仕に励んで、聖武天皇から大菩薩の号を賜ると伝えられている。因みに、高志は越(こし)で北陸地方の呼称と同じ義を含んでいるが、今は説くを省くとする。
金峰山と表記が同じ山名、山号、神社名が他にも多々ある。長野と山梨の県境に見える秩父山地の主峰は金峰山と書くが「キンプサン」または「キンポウサン」と訓み、北側から千曲川に、南側からは釜無川に清流を発する源である。この山も古来信仰の対象となり、祀るのは武蔵蔵王権現であり、古くは水晶の産地として知られていた。神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の浄智寺はキンブサン(金峰山)の山号で知られる。新潟県長岡市のキンブジンジャも金峰神社と書いて、吉野と同じく金山毘古命を祭神とするが、同一三六九年(七〇九)に北国鎮護のため吉野から勧請したと伝わっている。
大峰山(大峯山)は狭義に山上ヶ岳を指す場合もある。山上ヶ岳の標高は一七二〇メートルであるが、大峰山脈の諸峰は大凡一二〇〇〜一九〇〇メートル台で聳える。山上ヶ岳は役行者修験道の根本道場といわれ、金峯山寺があり、修験道の開祖を山上様と称える慣わしもある。
また、山上寺と呼ぶ寺もある。滋賀県神崎郡永源寺町に所在する永源寺は臨済宗永源寺派の大本山であるが、通常は永源寺の別称として山上寺という呼び方が使われる。
因みに蔵王権現とは、役行者が修験中に感得した悪魔を降伏させる菩薩であり、忿怒の相で、右手に三鈷(両端三つ叉の爪もつ金属亜鈴の如きもの)をかざし、右足をあげた像で描かれている。この像を祀る金峯山寺の本堂を蔵王堂と称し、役小角創建とされる。山上ヶ岳の蔵王堂は天険の地にあって参詣が困難なたため、天平年間に行基が現在地に安置したという。
ただし、同二〇〇八年(一三四八)反建武政権に属した高師直の兵火で焼失、同二一一六年(一四五六)に再建との記録がある。この事件はいわゆる「南北朝物語」の一端であって、足利尊氏の執事として政務の実権を掴んだ師直であるが、蔵王堂焼失の天誅は、足利兄弟の和議により、摂津武庫川で上杉顕能(あきよし)に殺されるという顛末に決着している。
され、大峰山地に巣立つ霊媒衆と大江山の霊媒衆には、明らかな筋の違いを見る位相が顕われる。むろん、神との交接に共通性が多いのは当たり前であるが、簡潔な究め方をすれば、「格」の違いであり、大江山では本義のアマテラスと交接しえない電気抵抗率に揺らぐ格しかない。
何ゆえ天武天皇が古事記編纂の勅命を発したのか、その意味が重要である。神と交接する神格天皇の位相を剖判すれば、実兄の天智天皇の即位に際して皇太子となるも、今上の重篤に接し、その平癒を願って吉野の山中で心神を浄めたと受け取るのが筋である。
これを政府御用達の書記は吉野への退去と取り違えるが、後世もまた先例に倣う行政の保身主義に拘泥したまま現代に至れば、公金の横領独占は常態となり、政官業言がともに一蓮托生のサバイバルしか見られない。神の信号はもともと言語道断の相を示しており、無責任な地球温暖化などの標語に関係なく、サバイバルとは違うリサイクルの原義を解くが、その原義を解くにはアマテラスを悟るほかない。
●鎖国下の大江山総督とは?
皇紀元年、日本は飽和状態に達した神世(宗教界)を不飽和に導くため、超克の型示し現人神(神武天皇)をして日本列島全域の行政改革に歩を進めた。その飽和状態克服の歴史を伝承する文献が記紀である。すなわち、皇親の型示しは、「天の誓(うけ)ひ(い)」「天の岩戸開き」「須佐之男命と櫛稲田姫命」「大国主命の経営」「武甕槌(たけみかつち)神の言向け和は(わ)し」「国譲り」「天孫降臨」「海幸彦と山幸彦」などの物語に刻まれている。
標高日本一の霊峰富士(不二)を遥拝して現人神の神事が行われるのはおよそ標高半分の大峰山脈においてである。さらに標高半分の大江山をして、神意忖度の行政改革が続けられていく。その行政に不満が鬱積して、東国行政を開くのが鎌倉幕政であり、その歴史を踏まえつつ再び東国政権を構築するのが江戸幕府であった。
家康は大御所と称し、富士山を仰ぎ見る駿府(静岡)を開くと、大江山の動向を諜報活動する体制を整えるべく励んだ。源頼朝の失敗を繰返さないためである。キリシタンの蔓延などの国外政治の侵入を鎖国で封じつつも、もっとも懼るべきは、西国政権が積み上げた歴史の重みゆえ、大江山を自らが総督するため、紀伊と尾張と大江山を結ぶ三方のロードマップを描き強化を急いだ。さらに本拠の江戸(東京)を安定させるため、東国の要として、水戸(茨城)にもっとも重大な布陣を敷いた後、権現たる自身の安置場所を日光山と定めて臨終に備えた。
二荒山は男体山の別称として使われるが、標高二四八四メートル、補陀落浄土(観音浄土)なる仏教的理想世界から命名されている。ただし、山名は音でニコウ(二荒=日光)とも訓まれる。男体山は日光火山群の主峰であり、上古には火山活動の沈静化を願う山岳信仰を根付かせたが、皇紀一四二七年(七六七)勝道上人の創建と伝えられる社殿が麓にあり、山上に奥宮、また中腹に中宮が設けられている。
この二荒山神社の祭神は大己貴(おほなむちの)命、田心姫(たごりひめの)命、味耜高彦根(あじすきたかひこねの)命であり、勝道上人は神宮寺も開いており、桓武天皇の上野国講師に任ぜられている。因みに男体山は日光富士の別称を有する。
鎌倉幕府滅亡の主因は現人神の軽視にあり、室町幕府滅亡の主因もまた、現人神を叉割く罪の天誅であり、家康もまた源氏に固執して、武士(家人)の一念を貫こうとしたが、霊媒衆真贋を見極められず、江戸幕府の行く末は軽輩の手で倒された。
これら政体の観音浄土を成すのは、常に現人神の禊祓であるが、ここでは鎖国下の大江山に巣立つ姓として、その屋号「出口」の観音について触れておくことにする。
出口を直訳すれば、神意は口から出る音すなわち言葉で発せられ、その音を手に託せば筆先となり、口と手は情報が同じ義で成らなければ意味はない。つまり、風紀を乱す「口八丁手八丁」の如きと異なるのだ。
霊言「て」音を記紀に載る百神の中の宝座に照らせば、天之吹男神は津島を宝座としており、「て」は脳内神経の扉を開く「つ=大戸日別神」の働きを承けて、日(ひ)=霊(ひ)すなわち神の信号が吹く風の如く出てくる位相を意味する。宝座すなわち島の意味は「締め括る」である。津島の津が港を意味するように、発生言語が集まり出て行く位相を「て」は意味する。
次の霊言「く」音は沫那芸神(あはなぎのかみ)で宝座は佐渡島(佐け渡し締め括る)である。沫は泡と同義で反引力に相当するため、共振電波すなわち「あ」と「わ」の関係に通じ、伊邪那岐神(男系因子)また伊邪那美神(女系因子)の如く、相互分担して、明瞭な意味を選り分け繰り結ぶ操作をいう。
さらに、霊言「ち」音は宇比地邇神(うひちにのかみ)で宝座は筑紫島(尽くし締め括る)である。その神意は宇宙と比するとき、地球は邇(ちか)し「い=須比智邇神(すひちにのかみ)」が承けて、須(統)べからく智に比す事柄は邇(に)たりを意味する。そのゆえに、出口は単なる家名ではないのだ。
現人神の威厳を畏怖する江戸幕府は表門に京都所司代を配し、朝廷の専権事案たる行政に悉く干渉しつつ、裏門では大江山霊媒衆を操作するために、奈良市北東部にある柳生の地に陣屋を設け、伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)に根ざす霊媒衆を採用した。
伊賀は大化改新で伊勢に併合されたが、天武天皇のとき再び伊賀国となり、平安期は平氏、そして鎌倉期は大内氏、さらに室町期は伊勢北畠氏の勢力下に置かれた。この伊賀と伊勢を江戸幕府によって託されたのは藤堂氏であり、藤堂家の祖は近江国愛智郡を司る大領(郡司長官)家のうち犬上郡藤堂村に住した者が始まりで、六角氏、京極氏に仕え、初代藩主の高虎は浅井、織田、豊臣を奉じた後に徳川に仕えた。
甲賀は滋賀県南東部にある信楽丘陵を占める地で、天武天皇即位のころ鹿深(かふか)と称し、日本書紀に記される地名であり、古くはアヘンも手掛けたが、薬を開発するのが盛んな地として知られる。
つまり、西国の飽和状態を不飽和へ導くため、東国へ移動した政体であるが、その不飽和もおよそ二七〇年しか続かなかった。
●大江山発祥の大本信仰
徳川将軍家は第一五代までのおよそ二七〇年を持ち堪えたが、その成果は神格天皇が第一〇七代の後陽成天皇から第一二一代の孝明天皇まで、皇女二天皇を含め、歴代一五皇親で支えた皇紀(二二六三〜二五二六年)あればこそである。この時代における神格による禊祓は、別冊『超克の型示し』を参照されたい。
さて、職能や地名などを所縁とする姓氏が出現すると、政体は次第に姓氏階級制度を設けるようになり、朝廷では源平藤橘(源氏、平氏、藤原、橘)の四姓が政権争奪を行うようになり、その鬱積が募るや公家侍と家人の集合体が朝廷制に嫌気を催し、幕府(武家政治)を建て封建制を敷くようになるのである。
神格を保つ天皇は皇親(すめらみおや)の勅(みことのり)を順守のうえ、姓氏超克の振舞いで型示しをする。氏上(うじがみ)に準ずる民も永く姓氏は埒外とされたが、幾たびかの戸籍開放を経ながら、次第に家名も許されて、明治に至るやすべての民が家名の登録を急がれることになった。
この制度は鎖国一五代に及ぶ継続を経てこそ成り立つ話であり、開国制度下の移民法では難を極めて、皇国史観の如く「国民は統べて天皇の赤子」と嘯く政策などが俄仕立てで通用するはずもない。
鎖国下において幕府が難渋した政策の一つは非人(無戸籍者)の扱いで、結局は被差別業種の管理化に編入し、ようやく非人を戸籍に組み入れることに成功した。非人は技芸が達者で定住を嫌う修験者から、犯罪を背負い逃げ回る狡猾者まで、ミソもクソも一緒に一纏めにされ、被差別業種の管理職弾左衛門にはその見返りたる政府公認の独占公益事業が与えられた。これが現在に至る同和問題の起源であり、今や政官業を挙げての癒着の温床となり、乗り遅れまいと相乗りの言を巻き込みつつ、似非教育下の点取り信徒を養う民主化が今日(きょうび)の実相とはなっている。
戸籍の売買(うりかい)や貸借(かしかり)は古からあるが、戸籍は政府を支える住民基本台帳の原本であるがゆえに、外圧開国下で戸籍が株式と同じように扱われ売買の対象となれば、もはやわが祖国は営利追求の法人会社に委ねたも同然となろう。
なにゆえに明治政府が民の家名登録を急いだのか、その理由はここにある。問題は、西洋ルネサンスの鬼子として誕生したロヨラ流の霊操によって洗脳を受けた官吏が養成され和魂洋才なる妖怪が巣立つと、鎌倉時代に始まった封建制の特殊法人を詐取して、祖国を株式組織としたことにあるのである。現今の「民営化」は何も最近の新政策ではなく、明治に始まった戸籍株式化の総仕上げと言うべきである。
識字率が低かった明治初期、国民がみな家名登録する際の名付けに、枝葉末節の事実は広く伝わるも、歴史を見透かす波形は浮かばない。真贋を問わず易断に呆ける風俗は時代を選ばないが、人の本能的属性は常に利己欲優先の信仰を潜ませつつ、家名登録に際しては名跡名字を望む富裕層ほど、その信仰を担う霊媒衆に貢ぐを惜しまない。
幕政総督下で自在性を失った大江山霊媒衆にとり、幕末維新の働きも少なくないが、家名の名付親を任じる役割は千載一遇であって、貢を惜しまない富裕層が群がったこともあり、貧困層には無償で名付けを施したため、その信奉礼賛で大江山に差し込む光も俄に強くなったのである。
むろん、大江山に土着の霊媒衆は少なくとも、もとより霊媒衆は修験道を旅するため、そのネットワークは全国津々浦々に及ぶ。かくして苦もなく、大本講社が起ち上がっても何ら不思議はあるまいが、そこに忘れてはならないのは、維新の神仏分離令(一八六八)や神格天皇の東京行幸(一八六九)などの重大施策である。さらに仏式陸軍と英式陸軍の兵制布告(一八七〇)、平民苗字許可制(同年)、寺社領没収(一八七一)、士族および平民の身分制存続(同年)、壬申戸籍実施(一八七二)等の施策がある。
壬申戸籍すなわち国民がみな家名を登録するという制度の実施は、霊媒衆に千載一遇の好機をもたらし、大江山が俄に活気づくのも当然であろうが、鎖国下で辛酸を嘗めてきた霊媒衆は、再び同じ苦渋を招くほど愚かではない。神仏分離令は廃仏毀釈テロを引起こし、寺社領没収の引金に利用されたのだが、もっとも重大な政治的暴力は神格天皇の東京行幸に尽きる。
力不足の維新政府は現人神の威徳を必要としたのだろうが、いわゆる南北朝の暴走政権でさえ、神格天皇の遷宮を政争の具(つばら)に用いる何ぞは控えている。大東亜戦争を歴史の闇へ封じるために、前代未聞の東京国際軍事裁判を強行した戦勝連合国さえ、自ら出廷も辞さない現人神の勅には恐れ戦いている。然るに維新政府は、霊操洗脳に魂の奥まで冒されて、現人神の威徳を封じる「和魂洋才」なる標語の下、経歴詐称の富国強兵制を強行していく。明治に始まる富国強兵策は最終的に未曾有の原爆投下で史上最大のジェノサイド(皆殺し)を招くが、その経過は後に別記するとして、ここでは大本講社を起ち上げた大江山霊媒衆の真贋に焦点を絞ることにしよう。
【文明地政學叢書第三輯】第八章 大江山系と非大江山系
9月 9, 2021 9月 9, 2021 文明地政學叢書第三輯『真贋大江山系霊媒衆』 戦略思想研究所, 栗原茂
文明地政學叢書第三輯『真贋大江山系霊媒衆』
●もう一つの霊媒衆
大江山の筋の違う霊媒衆にも触れておきたい。奈良県南部の大峰山(おおみねさん)は別称を金峰山(きんぶせん)という。江戸時代中期の皇紀二四三九年(一七七九)光格天皇即位に際して役行者没一一〇〇年遠忌祭の勅命で神変大菩薩の諡号が発せられた。
而して、当の役行者は天武天皇在位中に没したことになり、古事記は天武天皇の勅命により編纂に及ぶため、当時の伝承は官の誦習が基礎であり、神との交接も音声が司配(しはい)したことになる。大峰山脈の主要部諸峰を総称して呼ぶ大峰山(大峯山)は、北部を金峰山と呼ぶ場合に南部の総称として使われる。修験道第一の行法は陰暦四月八日に入るのが通例とされ、熊野から入るのを「順の峰入り」また吉野から入るのが「逆の峰入り」と伝わる風習が慣例とされる。
同二三五一年(一六九一)以来、金峰山頂上の経塚から数次にわたり、大量の経筒、経箱、神像、仏像などが出て発掘も盛んに行われた。吉野の金峰神社は、金山毘古命(かなやまびこのみこと)を祭神として、野山の地主神また金鉱の守護神という信仰の対象とされ、別称では、蔵王権現、かねのみたけ神社、あるいは金精大明神としても知られる。
同じく吉野の金峯山寺は金峰山修験本宗の総本山で、役小角の創建と伝わり、天平年間(七二九〜四九)行基が蔵王権現を祀るともいう。行基(六六八〜七四九)は百済王の子孫といわれ、姓氏は高志(こし)、和泉(大阪南西部)の人といい、元興寺にて得度した後に諸国行脚し、その途次で道路の補修、堤防の築造、橋梁の架設、貯水池の設置など全国で多くの事績をこなし、寺院の建立も少なからず、東大寺の大仏建立に際しては、勅命を受け奉仕に励んで、聖武天皇から大菩薩の号を賜ると伝えられている。因みに、高志は越(こし)で北陸地方の呼称と同じ義を含んでいるが、今は説くを省くとする。
金峰山と表記が同じ山名、山号、神社名が他にも多々ある。長野と山梨の県境に見える秩父山地の主峰は金峰山と書くが「キンプサン」または「キンポウサン」と訓み、北側から千曲川に、南側からは釜無川に清流を発する源である。この山も古来信仰の対象となり、祀るのは武蔵蔵王権現であり、古くは水晶の産地として知られていた。神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の浄智寺はキンブサン(金峰山)の山号で知られる。新潟県長岡市のキンブジンジャも金峰神社と書いて、吉野と同じく金山毘古命を祭神とするが、同一三六九年(七〇九)に北国鎮護のため吉野から勧請したと伝わっている。
大峰山(大峯山)は狭義に山上ヶ岳を指す場合もある。山上ヶ岳の標高は一七二〇メートルであるが、大峰山脈の諸峰は大凡一二〇〇〜一九〇〇メートル台で聳える。山上ヶ岳は役行者修験道の根本道場といわれ、金峯山寺があり、修験道の開祖を山上様と称える慣わしもある。
また、山上寺と呼ぶ寺もある。滋賀県神崎郡永源寺町に所在する永源寺は臨済宗永源寺派の大本山であるが、通常は永源寺の別称として山上寺という呼び方が使われる。
因みに蔵王権現とは、役行者が修験中に感得した悪魔を降伏させる菩薩であり、忿怒の相で、右手に三鈷(両端三つ叉の爪もつ金属亜鈴の如きもの)をかざし、右足をあげた像で描かれている。この像を祀る金峯山寺の本堂を蔵王堂と称し、役小角創建とされる。山上ヶ岳の蔵王堂は天険の地にあって参詣が困難なたため、天平年間に行基が現在地に安置したという。
ただし、同二〇〇八年(一三四八)反建武政権に属した高師直の兵火で焼失、同二一一六年(一四五六)に再建との記録がある。この事件はいわゆる「南北朝物語」の一端であって、足利尊氏の執事として政務の実権を掴んだ師直であるが、蔵王堂焼失の天誅は、足利兄弟の和議により、摂津武庫川で上杉顕能(あきよし)に殺されるという顛末に決着している。
され、大峰山地に巣立つ霊媒衆と大江山の霊媒衆には、明らかな筋の違いを見る位相が顕われる。むろん、神との交接に共通性が多いのは当たり前であるが、簡潔な究め方をすれば、「格」の違いであり、大江山では本義のアマテラスと交接しえない電気抵抗率に揺らぐ格しかない。
何ゆえ天武天皇が古事記編纂の勅命を発したのか、その意味が重要である。神と交接する神格天皇の位相を剖判すれば、実兄の天智天皇の即位に際して皇太子となるも、今上の重篤に接し、その平癒を願って吉野の山中で心神を浄めたと受け取るのが筋である。
これを政府御用達の書記は吉野への退去と取り違えるが、後世もまた先例に倣う行政の保身主義に拘泥したまま現代に至れば、公金の横領独占は常態となり、政官業言がともに一蓮托生のサバイバルしか見られない。神の信号はもともと言語道断の相を示しており、無責任な地球温暖化などの標語に関係なく、サバイバルとは違うリサイクルの原義を解くが、その原義を解くにはアマテラスを悟るほかない。
●鎖国下の大江山総督とは?
皇紀元年、日本は飽和状態に達した神世(宗教界)を不飽和に導くため、超克の型示し現人神(神武天皇)をして日本列島全域の行政改革に歩を進めた。その飽和状態克服の歴史を伝承する文献が記紀である。すなわち、皇親の型示しは、「天の誓(うけ)ひ(い)」「天の岩戸開き」「須佐之男命と櫛稲田姫命」「大国主命の経営」「武甕槌(たけみかつち)神の言向け和は(わ)し」「国譲り」「天孫降臨」「海幸彦と山幸彦」などの物語に刻まれている。
標高日本一の霊峰富士(不二)を遥拝して現人神の神事が行われるのはおよそ標高半分の大峰山脈においてである。さらに標高半分の大江山をして、神意忖度の行政改革が続けられていく。その行政に不満が鬱積して、東国行政を開くのが鎌倉幕政であり、その歴史を踏まえつつ再び東国政権を構築するのが江戸幕府であった。
家康は大御所と称し、富士山を仰ぎ見る駿府(静岡)を開くと、大江山の動向を諜報活動する体制を整えるべく励んだ。源頼朝の失敗を繰返さないためである。キリシタンの蔓延などの国外政治の侵入を鎖国で封じつつも、もっとも懼るべきは、西国政権が積み上げた歴史の重みゆえ、大江山を自らが総督するため、紀伊と尾張と大江山を結ぶ三方のロードマップを描き強化を急いだ。さらに本拠の江戸(東京)を安定させるため、東国の要として、水戸(茨城)にもっとも重大な布陣を敷いた後、権現たる自身の安置場所を日光山と定めて臨終に備えた。
二荒山は男体山の別称として使われるが、標高二四八四メートル、補陀落浄土(観音浄土)なる仏教的理想世界から命名されている。ただし、山名は音でニコウ(二荒=日光)とも訓まれる。男体山は日光火山群の主峰であり、上古には火山活動の沈静化を願う山岳信仰を根付かせたが、皇紀一四二七年(七六七)勝道上人の創建と伝えられる社殿が麓にあり、山上に奥宮、また中腹に中宮が設けられている。
この二荒山神社の祭神は大己貴(おほなむちの)命、田心姫(たごりひめの)命、味耜高彦根(あじすきたかひこねの)命であり、勝道上人は神宮寺も開いており、桓武天皇の上野国講師に任ぜられている。因みに男体山は日光富士の別称を有する。
鎌倉幕府滅亡の主因は現人神の軽視にあり、室町幕府滅亡の主因もまた、現人神を叉割く罪の天誅であり、家康もまた源氏に固執して、武士(家人)の一念を貫こうとしたが、霊媒衆真贋を見極められず、江戸幕府の行く末は軽輩の手で倒された。
これら政体の観音浄土を成すのは、常に現人神の禊祓であるが、ここでは鎖国下の大江山に巣立つ姓として、その屋号「出口」の観音について触れておくことにする。
出口を直訳すれば、神意は口から出る音すなわち言葉で発せられ、その音を手に託せば筆先となり、口と手は情報が同じ義で成らなければ意味はない。つまり、風紀を乱す「口八丁手八丁」の如きと異なるのだ。
霊言「て」音を記紀に載る百神の中の宝座に照らせば、天之吹男神は津島を宝座としており、「て」は脳内神経の扉を開く「つ=大戸日別神」の働きを承けて、日(ひ)=霊(ひ)すなわち神の信号が吹く風の如く出てくる位相を意味する。宝座すなわち島の意味は「締め括る」である。津島の津が港を意味するように、発生言語が集まり出て行く位相を「て」は意味する。
次の霊言「く」音は沫那芸神(あはなぎのかみ)で宝座は佐渡島(佐け渡し締め括る)である。沫は泡と同義で反引力に相当するため、共振電波すなわち「あ」と「わ」の関係に通じ、伊邪那岐神(男系因子)また伊邪那美神(女系因子)の如く、相互分担して、明瞭な意味を選り分け繰り結ぶ操作をいう。
さらに、霊言「ち」音は宇比地邇神(うひちにのかみ)で宝座は筑紫島(尽くし締め括る)である。その神意は宇宙と比するとき、地球は邇(ちか)し「い=須比智邇神(すひちにのかみ)」が承けて、須(統)べからく智に比す事柄は邇(に)たりを意味する。そのゆえに、出口は単なる家名ではないのだ。
現人神の威厳を畏怖する江戸幕府は表門に京都所司代を配し、朝廷の専権事案たる行政に悉く干渉しつつ、裏門では大江山霊媒衆を操作するために、奈良市北東部にある柳生の地に陣屋を設け、伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)に根ざす霊媒衆を採用した。
伊賀は大化改新で伊勢に併合されたが、天武天皇のとき再び伊賀国となり、平安期は平氏、そして鎌倉期は大内氏、さらに室町期は伊勢北畠氏の勢力下に置かれた。この伊賀と伊勢を江戸幕府によって託されたのは藤堂氏であり、藤堂家の祖は近江国愛智郡を司る大領(郡司長官)家のうち犬上郡藤堂村に住した者が始まりで、六角氏、京極氏に仕え、初代藩主の高虎は浅井、織田、豊臣を奉じた後に徳川に仕えた。
甲賀は滋賀県南東部にある信楽丘陵を占める地で、天武天皇即位のころ鹿深(かふか)と称し、日本書紀に記される地名であり、古くはアヘンも手掛けたが、薬を開発するのが盛んな地として知られる。
つまり、西国の飽和状態を不飽和へ導くため、東国へ移動した政体であるが、その不飽和もおよそ二七〇年しか続かなかった。
●大江山発祥の大本信仰
徳川将軍家は第一五代までのおよそ二七〇年を持ち堪えたが、その成果は神格天皇が第一〇七代の後陽成天皇から第一二一代の孝明天皇まで、皇女二天皇を含め、歴代一五皇親で支えた皇紀(二二六三〜二五二六年)あればこそである。この時代における神格による禊祓は、別冊『超克の型示し』を参照されたい。
さて、職能や地名などを所縁とする姓氏が出現すると、政体は次第に姓氏階級制度を設けるようになり、朝廷では源平藤橘(源氏、平氏、藤原、橘)の四姓が政権争奪を行うようになり、その鬱積が募るや公家侍と家人の集合体が朝廷制に嫌気を催し、幕府(武家政治)を建て封建制を敷くようになるのである。
神格を保つ天皇は皇親(すめらみおや)の勅(みことのり)を順守のうえ、姓氏超克の振舞いで型示しをする。氏上(うじがみ)に準ずる民も永く姓氏は埒外とされたが、幾たびかの戸籍開放を経ながら、次第に家名も許されて、明治に至るやすべての民が家名の登録を急がれることになった。
この制度は鎖国一五代に及ぶ継続を経てこそ成り立つ話であり、開国制度下の移民法では難を極めて、皇国史観の如く「国民は統べて天皇の赤子」と嘯く政策などが俄仕立てで通用するはずもない。
鎖国下において幕府が難渋した政策の一つは非人(無戸籍者)の扱いで、結局は被差別業種の管理化に編入し、ようやく非人を戸籍に組み入れることに成功した。非人は技芸が達者で定住を嫌う修験者から、犯罪を背負い逃げ回る狡猾者まで、ミソもクソも一緒に一纏めにされ、被差別業種の管理職弾左衛門にはその見返りたる政府公認の独占公益事業が与えられた。これが現在に至る同和問題の起源であり、今や政官業を挙げての癒着の温床となり、乗り遅れまいと相乗りの言を巻き込みつつ、似非教育下の点取り信徒を養う民主化が今日(きょうび)の実相とはなっている。
戸籍の売買(うりかい)や貸借(かしかり)は古からあるが、戸籍は政府を支える住民基本台帳の原本であるがゆえに、外圧開国下で戸籍が株式と同じように扱われ売買の対象となれば、もはやわが祖国は営利追求の法人会社に委ねたも同然となろう。
なにゆえに明治政府が民の家名登録を急いだのか、その理由はここにある。問題は、西洋ルネサンスの鬼子として誕生したロヨラ流の霊操によって洗脳を受けた官吏が養成され和魂洋才なる妖怪が巣立つと、鎌倉時代に始まった封建制の特殊法人を詐取して、祖国を株式組織としたことにあるのである。現今の「民営化」は何も最近の新政策ではなく、明治に始まった戸籍株式化の総仕上げと言うべきである。
識字率が低かった明治初期、国民がみな家名登録する際の名付けに、枝葉末節の事実は広く伝わるも、歴史を見透かす波形は浮かばない。真贋を問わず易断に呆ける風俗は時代を選ばないが、人の本能的属性は常に利己欲優先の信仰を潜ませつつ、家名登録に際しては名跡名字を望む富裕層ほど、その信仰を担う霊媒衆に貢ぐを惜しまない。
幕政総督下で自在性を失った大江山霊媒衆にとり、幕末維新の働きも少なくないが、家名の名付親を任じる役割は千載一遇であって、貢を惜しまない富裕層が群がったこともあり、貧困層には無償で名付けを施したため、その信奉礼賛で大江山に差し込む光も俄に強くなったのである。
むろん、大江山に土着の霊媒衆は少なくとも、もとより霊媒衆は修験道を旅するため、そのネットワークは全国津々浦々に及ぶ。かくして苦もなく、大本講社が起ち上がっても何ら不思議はあるまいが、そこに忘れてはならないのは、維新の神仏分離令(一八六八)や神格天皇の東京行幸(一八六九)などの重大施策である。さらに仏式陸軍と英式陸軍の兵制布告(一八七〇)、平民苗字許可制(同年)、寺社領没収(一八七一)、士族および平民の身分制存続(同年)、壬申戸籍実施(一八七二)等の施策がある。
壬申戸籍すなわち国民がみな家名を登録するという制度の実施は、霊媒衆に千載一遇の好機をもたらし、大江山が俄に活気づくのも当然であろうが、鎖国下で辛酸を嘗めてきた霊媒衆は、再び同じ苦渋を招くほど愚かではない。神仏分離令は廃仏毀釈テロを引起こし、寺社領没収の引金に利用されたのだが、もっとも重大な政治的暴力は神格天皇の東京行幸に尽きる。
力不足の維新政府は現人神の威徳を必要としたのだろうが、いわゆる南北朝の暴走政権でさえ、神格天皇の遷宮を政争の具(つばら)に用いる何ぞは控えている。大東亜戦争を歴史の闇へ封じるために、前代未聞の東京国際軍事裁判を強行した戦勝連合国さえ、自ら出廷も辞さない現人神の勅には恐れ戦いている。然るに維新政府は、霊操洗脳に魂の奥まで冒されて、現人神の威徳を封じる「和魂洋才」なる標語の下、経歴詐称の富国強兵制を強行していく。明治に始まる富国強兵策は最終的に未曾有の原爆投下で史上最大のジェノサイド(皆殺し)を招くが、その経過は後に別記するとして、ここでは大本講社を起ち上げた大江山霊媒衆の真贋に焦点を絞ることにしよう。