鎌倉かまくらにある病院。


 河瀬が入院している総合病院。


 天野はその廊下にて、涼太たちの様子を眺めていた。




天野勇二

…………




 涼太は河瀬の両親と担当医を交えて会話している。


 今後のことを相談しているのだろう。


 涼太は何度も頭を下げている。


 河瀬の両親も同じだ。


 天野はため息を吐きながら病室を眺めた。




河瀬結衣

…………



 ベッドの上には河瀬の姿。


 一言も喋らず。


 感情を表に出すこともなく。


 ただ黙って壁の一点を見つめている。


 河瀬の友人たちが笑顔で声をかけているが反応はない。


 何も聴こえていないかのようだ。


 天野は顔を歪めながら涼太の言葉を思い起こした。














佐伯涼太

そうだよ。
僕はね、君の『恋人』なんだ。









天野勇二

チッ……。
あの野郎……。
あんな『嘘』を吐きやがって……。



 苛立ちを噛み殺しながら廊下を歩く。


 やがて涼太がやって来た。


 頭をかきながら苦笑している。



佐伯涼太

いやぁ……。
待たせてごめんね。
結衣ちゃんのご両親と、これからのことを色々話してさ。


 天野は厳しい声で尋ねた。


天野勇二

どうなった?
河瀬の両親は何と言っていた?

佐伯涼太

「しばらく『嘘』を継続してほしい」ってさ。
つまりね、僕と結衣ちゃんはめでたく『お付き合い』してることになったんだよ。


 涼太はヘラヘラと笑みを浮かべた。


佐伯涼太

いやぁ、まいったねぇ。
『両親公認のカップル』だよ。
恥ずかしいもんだね。
こんなの初めてだけど、思ったより悪くないもんだね。


 天野は吐き捨てるように言った。


天野勇二

それは賛成できんな。
今からでも遅くない。
『嘘』を訂正しろ。
河瀬に『恋人』ではないと告げるんだ。

佐伯涼太

いやいや……。
それは可哀想でしょ。
結衣ちゃんはずっとあんなカンジなんだって。


 顎で病室を示す。


佐伯涼太

ずっとふさぎこんでるんだ。
誰の呼びかけにも応えない。
時々、思い出したように泣くこともあるんだって。
僕の名前を呼んだことが『奇跡』だって言われたよ。
ご両親には「しばらくは結衣を励ましてほしい」って頼まれたんだ。

天野勇二

両親がそう望むのは理解できる。
だが、避けるべき行為だ。
河瀬の発言は作話さくわと呼ばれる記憶障害の一種なんだ。


 厳しい表情で言葉を続ける。


天野勇二

単純に言えば『記憶違い』さ。
自らの足りない記憶を想像によって埋めている。
本人にとっては『正直な嘘』でしかない。
あれを肯定すべきではないんだ。


 涼太が不満げに言い返す。


佐伯涼太

でもさぁ、勇二は結衣ちゃんの発言を『否定するな』って言ったじゃん。
周囲に拒絶されたら心を閉ざしちゃうって。
僕はそれを守ったつもりだけど。

天野勇二

俺は『強く否定するな』と言ったんだ。
肯定しろとは言ってない。
それに理解しているはずだ。
あんな『嘘』は一時しのぎの慰めにしかならないんだぜ。

お前は河瀬に惚れたのか?
このまま付き合うつもりか?
本気で『恋人』にしたいと考えているのか?

佐伯涼太

そ、それは……。


 涼太が困ったように顔を伏せる。


 天野はその弱々しい顔を睨みつけた。


天野勇二

俺様の瞳は優秀だ。
時々間違うこともあるが、今はその時じゃない。
お前の浅はかな心理なんか透けて見えるよ。

いつか河瀬は記憶を取り戻す。
さっきも言ったが、外傷による『記憶障害』が長期化することはまれなんだ。


 涼太は苦しげに唇を閉じた。


天野勇二

今の河瀬はお前の『嘘』にすがるだろう。
それでもいつか傷は癒える。
記憶を取り戻す。
その時、お前が吐いた『嘘』の意味を知る。

最後に残るのはなんだ?
手痛い『失恋の記憶』だろう?
お前がやっているのは、河瀬の心を引き裂く行為でしかないんだよ。



 涼太は小さく息を吐いた。


 何度か首を横に振る。


 諦めたように言った。



佐伯涼太

……わかってるよ。
この『嘘』が良くないって。
結衣ちゃんの記憶を混乱させるかもしれない。
記憶が戻ったら、結衣ちゃんは僕を恨むかもしれない。


 涼太が顔を上げた。


 悪友の顔を見つめ、ニンマリと笑みを浮かべる。


佐伯涼太

それでも信じてよ。
僕はうまくやってみせる。
『嘘の恋人』を演じきりながら、結衣ちゃんを励ましてみせる。
そんでもって最後は綺麗に別れてみせる。

『チャラ男』の僕ちゃんならお手の物さ。
一番の得意分野じゃん。


 天野は舌打ちをした。


 苛立ちを浮かべながら尋ねる。


天野勇二

本気で言っているのか?
高校生の時にあったことを忘れたか?
お前はいつから『女子高生を騙す大学生』を好むようになったんだ?

佐伯涼太

『騙す』だなんて人聞きが悪いじゃん。
まぁ、騙してるんだけどさ。
でも過去に出会ったアイツとは違うよ。

天野勇二

手を出せば同じことだ。
もう俺はお前を『産婦人科クリニック』に連れて行くのは御免だぜ。


 涼太が「ぎょっ」とした表情を浮かべた。


佐伯涼太

うわっ……!
その言い方はキッツいなぁ……。
僕のトラウマを遠慮なく掘り起こすのはやめてよ。

手なんか出さない。
約束する。
ただ僕は励ましたいだけなんだ。
今の結衣ちゃんを見捨てられないんだよ。
もし彼女が現実を怖がっているなら、そんなに世の中悪いことばかりじゃないよって、手を引っ張ってあげたいんだよね。


 懇願するように言葉をつむぐ。


佐伯涼太

どうか許してよ。
褒められた行為じゃないのは理解してる。
結衣ちゃんの記憶が混乱しないように努力する。
勇二には理解してほしい。
勇二だけは、僕の味方でいてほしいんだ。



 涼太はいつもと同じように軽薄な笑みを浮かべている。


 それでも瞳の輝きは強い。


 決意を秘めた瞳だ。


 天野はそれを確かめると、呆れたように言った。



天野勇二

チッ……。
気乗りしないな。
本当に気乗りしない。
だが、お前がそこまで言うなら仕方ない。
俺様も『嘘』に付き合ってやろう。


 涼太は「ほっ」と息を吐いた。


佐伯涼太

ありがとう。
マジで助かるよ。
やっぱり勇二がいると心強いからさ。


 額の汗を拭いながら笑う。


 天野は複雑な心境でその横顔を眺めていた。





 その日から、涼太と河瀬の若干ぎこちない『交際』が始まった。




 河瀬は『逆向健忘ぎゃっこうけんぼう』により、記憶のほとんどを失っている。


 それでも「風呂の入り方」や「トイレの使い方」などの生活記憶は残っており、日常生活に支障をきたすことはなかった。


 手足の一部に麻痺があるが、リハビリを繰り返すことで元通りになる。


 大きな後遺症を残すことはない。




 しかし、問題は精神の状態にあった。


 頭を殴られたショック。


 記憶を失ったことによる不安。


 軽度のうつ状態にあり、これまでの日常を取り戻すには時間がかかるだろう、と診断されていた。





佐伯涼太

ほら、結衣ちゃん。
見てごらん。
海だよ。
ここは由比ヶ浜ゆいがはまっていう海岸なんだ。



 9月の初旬。


 まだ夏の暑さが残る晴れた日。


 涼太は河瀬と一緒に由比ヶ浜ゆいがはまを訪れていた。



 人の少なくなった砂浜。


 心地よい潮風。


 寄せては返す波の音。



 河瀬は車椅子の上でそれらを眺めている。


 まだ満足に歩くことはできない。


 涼太は潮風に吹かれながら言った。



佐伯涼太

僕と結衣ちゃんはここで出会ったんだよ。
なかなか印象深い出会いでさぁ。
あの時は本当に驚いたな。

どうかな?
何か覚えてる?



 河瀬はじっと砂浜を見つめた。


 感情の消えた顔。


 うつろな瞳。


 ゆっくり首を横に振った。



河瀬結衣

……わからない。
覚えてない……。

佐伯涼太

そっか。
まぁ、無理して思い出さなくてもいいよ。

河瀬結衣

ごめんなさい……。
涼太さんと出会えた、大事な思い出の場所なのに……。

佐伯涼太

そんなの気にしないで。
大事なのは結衣ちゃんと出会った後のことだから。
つまり今だよね。
今が大事ならそれでいいんだよ。


 河瀬の肩に手を置く。


 励ますように言った。


佐伯涼太

ねぇ結衣ちゃん……。
本当はね、僕は結衣ちゃんのことをよく知らないんだ。
僕たちは出会ったばかりでさ。
結衣ちゃんも僕のことをよく知らなかったんだよ。


 涼太は何度も河瀬の名前を呼んでいる。


 名前を印象づけて、記憶を呼び起こそうと試みているのだ。


河瀬結衣

そうなの……?

佐伯涼太

そうなんだよ。
だからね、結衣ちゃんが僕とのことを覚えてなくても、何ひとつ問題はないんだ。

僕たちは互いを知りあっていく途中だった。
大事なことはこれから知ればいい。
思い出もこれから作ればいい。
僕たちにとって大切なのは今と未来だけ。
過去にこだわる必要はないからね。

河瀬結衣

うん……。



 河瀬が小さく頷く。


 目覚めた当初よりは喋るようになったが、まだ感情はとてもおぼろげだ。


 ぼんやりと虚空こくうを見つめている。


 まだ意識の半分が夢の彼方にあるのかもしれない。



佐伯涼太

でも、これだけは言える。
僕たちは出会った時、一瞬で心がかれあった。
まるでそれが僕たちの『運命』だったかのようにね。

河瀬結衣

運命……?

佐伯涼太

そうだよ。
僕はね、一瞬で結衣ちゃんのことが好きになったんだ。


 河瀬はじっと涼太の顔を見上げた。


河瀬結衣

そうなんだ……。
嬉しい……。
私もね……そうだったような気がするの……。

佐伯涼太

それなら嬉しいな。
僕たちは互いに一目惚ひとめぼれだったんだね。


 涼太が「あはは」と笑った。


 それを見た河瀬の頬が、ほんの僅かだがほころんだ。


河瀬結衣

ねぇ涼太さん……。
私はここで何をしていたの……?
涼太さんは、何をしていたの……?

佐伯涼太

僕は砂浜の掃除をしてたんだ。
結衣ちゃんはたまたま通りかかったんだよ。

河瀬結衣

写真は……?

佐伯涼太

えっ?
写真?

河瀬結衣

その時の写真はないの……?
どこにも、涼太さんの写真がないの……。


 河瀬は小さなアルバムを膝に乗せている。


 両親が持たせたものだ。


 過去に撮影した写真を見せて、河瀬の記憶を呼び起こそうとしているのだろう。


 河瀬にとってそれは失った記憶。


 自分である実感はないが、肌身離さず持っている。


佐伯涼太

写真はまだないんだ。
これから沢山撮ろうね。

河瀬結衣

うん……。
ここに、涼太さんとの写真を入れたいな……。
みんな知らない人ばかりで、怖いから……。

佐伯涼太

どんな写真なのかな?
見てもいい?

河瀬結衣

うん……。


 河瀬はパラパラとアルバムをめくった。


 そこには涼太が見たことのない『恋人』の姿があった。





 初めてランドセルを背負った時。


 小学校の入学式。


 10歳の誕生日。


 バトンを持って走った運動会。


 中学校の卒業式。


 家族と出かけた温泉旅行。


 友達と遊園地ではしゃぐ姿。





 涼太は驚いてその全てを見つめた。



佐伯涼太

これが……。
結衣ちゃんの笑顔なんだ……。



 どれも満開の笑顔を浮かべている。


 太陽のように明るい笑顔だ。


 由比ヶ浜を照らす夏の太陽に負けないほどの、まばゆい笑顔。



佐伯涼太

そっか……。
結衣ちゃんは……。
こんな風に笑うんだね……。




 知らなかった。


 河瀬がどんな笑顔を浮かべるのか。


 考えたこともなかった。


 そもそも、自分は河瀬の顔をしっかり見たことがあったのだろうか。


 アルバムを凝視ぎょうしする涼太の頬に、河瀬がそっと手を伸ばした。



河瀬結衣

どうしたの……?
元気、出して……。

佐伯涼太

……えっ?



 河瀬がじっと涼太を見上げている。


 表情のない顔。


 うつろな瞳。


 その瞳の中に、涼太の顔が映っている。



河瀬結衣

私ね……。
涼太さんに、元気を出してほしいなって……。
そう思ってた気がするの……。



 ぽつりと呟く。



河瀬結衣

なんでかな……。
思い出せないんだけど……。
励ましたいなって、思ったんだ……。
涼太さん、いつも元気だけど、時々すごく寂しそうな顔をするから……。



 涼太は思わず空を見上げた。


 突き抜ける夏の青空を見つめる。


 心が張り裂けそうに痛い。


 きっと『嘘』のせいだ。


 寄せては返す波の音が、一瞬だけ遠くに聴こえた。





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つばこ

天野くんは異常なほど『JK(子供)』に手を出すことを嫌ってますが、それはもしかしたら高校生時代の事件(『彼を上手にチャラ男にする方法』のことです)が関係しているのかもしれません。
 
あの事件は天野くんにとってひとつのターニングポイントになりました。
涼太くんと同じぐらいあの時出会った男のことを嫌っているのです。
その後、大好きな妹たちが『JK』となり、改めて「あいつのやったことは鬼畜極まりない」と再確認したのでしょう。
そう考えると天野くんがロリコンを嫌っても仕方ないなぁと感じますね。
  
ではでは、いつも応援やコメント、本当にありがとうございます!(*´∀`*)

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コメント 25件

  • ぷよぷよ

    彼を出所直後に上手に襲撃する方法

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  • 佐倉真実

    どあかみんなが幸せになりますように…

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  • 紫燕

    難しい(´◦ω◦`)

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  • ヨナカ

    天野君は心を自分で作ろうとしているのかも

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  • ニル

    めっちゃいい話になるやつ……

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