河瀬は夢を見ていた。















 それは湘南の夜。



 安江に手酷くフラれた夜。



 自分自身が心底イヤになった夜。




 もう男なんか信じない。



 絶対に信じるもんか。



 そう心に決めながら砂浜を歩いた。



 水平線から昇っていく朝日が本当に綺麗で。



 自分の身体がひどく汚れているように感じた。




 もう終わらせてしまいたい。



 そう呟いた時に、









 涼太と出会った。













 初めて会った時からかれていた。



 『元カレ』に捨てられて泣いた夜のことでさえ、この『出会い』のために存在したのだろうと感じた。



 それは夏祭りの夜、確信に変わった。







 あんなのズルい。


 卑怯だ。


 好きになるに決まってる。


 顔を見る度に気持ちが膨れ上がる。


 どんな会話を交わしても、どんな表情を見ても、その感情が治まることはなかった。








佐伯涼太

結衣ちゃん……。
起きなよ……。
起きてよ……。






 夢の彼方に涼太の声が響いている。


 悲しげな声だ。


 また『迷子の子供』のような顔を浮かべているのだろうか。




 何があったのかは知らない。


 知るべきではないのかもしれない。


 ……いや、別に知らなくてもいい。


 ただ、少しだけでも。


 励ますことができたなら。


 当たり前のように揺れる、涼太の軽薄けいはくな笑顔を見ることができたなら。




 そんなことを思いながら、河瀬は夢の彼方に響く涼太の声に耳をました。















佐伯涼太

結衣ちゃん……。
ごめん……。
ごめんよ……。



 病室に涼太の声が響いている。


 ここは鎌倉かまくらにある総合病院。


 ベッドの上には河瀬の姿。


 まぶたを閉じ、頭に包帯を巻かれ、深い眠りについている。




 意識不明の重体だった。




医者

……このまま意識が戻らないことがあるかもしれません……後遺症が残ることも……




 廊下から聴こえる医師の声。


 河瀬の両親に病状を説明しているのだ。


 嗚咽おえつをあげているのは母親だろう。



河瀬の友人A(あやか)

結衣……。
ねぇ、結衣……。

河瀬の友人B(あやの)

こんなのイヤだよ……。
起きてよぉ……。

河瀬の友人C(ゆか)

どうして……。
結衣……。



 河瀬の友人たちが泣きながら声をかけている。


 涼太は黙って病室を出た。


 無機質な病院の廊下を歩く。


 視線の先に天野が立っている。



天野勇二

……そうか。
よく教えてくれた。
管轄外だというのに悪かったな。
感謝するよ。



 誰かと電話していたようだ。


 スマホを胸元にしまいながら涼太に声をかける。



天野勇二

捜査一課の橋田はしだから連絡が入った。
犯人元カレ』は捕まった。
静岡まで逃げていたらしいが、白バイが車を発見して逮捕。
素直に犯行を認めたそうだ。


 吐き捨てるように言葉を続ける。


天野勇二

目撃者が多かったのが不幸中の幸いだったよ。
間違いなく『殺人未遂』で起訴きそされるだろう。
実刑は固いな。



 安江は河瀬を殴り、昏倒こんとうさせた後、一目散にその場から逃げ出していた。


 まだ人が多い時間帯での犯行。


 安江の車のナンバーはしっかり目撃されていたのだ。



佐伯涼太

そっか……。



 涼太は力なく頷いた。


 廊下に置かれた椅子に腰かける。


 青白い顔だ。



天野勇二

河瀬の容態はどうだ?
意識は戻ったか?

佐伯涼太

いや、まったく……。
ずっと眠ってるよ。

天野勇二

そうか……。



 天野は顔を歪めながら周囲を眺めた。


 河瀬の両親が医師から話を聞いている。


 母親は泣きじゃくり、父親の顔は怒りと絶望に染まっている。


 それだけで河瀬の容態が深刻であると、察することができた。



天野勇二

クソッ……。
なんて現実だ……。



 天野は重い息を吐いた。


 河瀬の両親から着信が入ったのは1時間前のこと。


 娘のスマホの発信履歴に名前があったので、「詳しい事情を聞きたい」と電話してきたのだ。


 天野はそこで『事件』のことを知った。


 涼太を連れてすぐさま鎌倉へ飛んで来たのだ。




佐伯涼太

……僕のせいだ。


 涼太が苦しげに呟いた。


佐伯涼太

僕が悪いんだ……。
軽率けいそつだった……。
『元カレ』に中途半端な喧嘩を売ったんだ。
あんなことをしたから、結衣ちゃんは……。

天野勇二

やめろ。


 天野が厳しい声で言った。


天野勇二

そんな後悔の言葉は聞きたくない。
無意味な戯言たわごとだ。
お前が自分を責めても、河瀬の容態が良くなるワケじゃないんだぜ。


 涼太が青白い顔を上げる。


 訴えるように言った。


佐伯涼太

でも、だけど……!
僕が違う『やり方』を選んでいれば、結衣ちゃんは襲われなかったかもしれないんだよ……!

天野勇二

その可能性を考えることに何の意味がある?
生産性のカケラも存在しない。
もう事件は起きてしまったんだ。

河瀬は頭部を殴られて意識不明の重体。
犯人は捕まった。
俺たちが動く必要はない。
それだけの話さ。



 涼太は唇を噛みしめた。


 天野が言いたいことは理解している。


 それでも考えてしまう。


 自分が河瀬と関わらなければ『事件』は起きなかったかもしれない。




 もっとうまく河瀬を遠ざけていれば。


 夏祭りの夜に声をかけなければ。


 由比ヶ浜ゆいがはまで見つけなければ。


 河瀬がこんなところで眠る必要はなかったはずなのに。




天野勇二

おい涼太……。
情けない顔をするなよ。
目を覚ました河瀬に、そんな腐ったツラを見せるつもりなのか?


 天野が呆れたように言った。


天野勇二

まだアイツは生きている。
必ず意識を取り戻すさ。
あれほど『タフな女』が、この程度でくたばるはずがないね。
まずはそれを信じろ。
だからこそ、もう一度声をかけてやれよ。


 どこか励ますような口調だ。


 涼太は小さく頷いた。


佐伯涼太

うん……。
わかったよ。
ありがとう。



 涼太は河瀬が眠る病室へ向かった。


 白く滑らかな手を握る。


 そして声をかけ続けた。


 精一杯の笑顔を浮かべて。


 出来る限りの甘い声で。


 励ましの言葉を贈り続けた。


 それがきっと、夢の彼方まで届いていると信じて。











 河瀬が意識を取り戻した。



 そんな連絡が入ったのは事件から数日後のこと。


 天野は涼太と一緒に、また鎌倉にある病院へ向かった。



河瀬の母親

すみません……。
何度も来ていただいて……。
本当にありがとうございます……。



 河瀬の母親は青ざめた顔で2人を出迎えた。



天野勇二

お気になさらないでください。
結衣さんの意識が戻ったと聞きましたが……。

河瀬の母親

ええ……。
意識は戻りました。
目を覚ましたんですが……。



 母親の表情は暗い。


 娘の快復を喜んでいる顔ではない。


 母親は苦しげに言った。



河瀬の母親

『記憶障害』を起こしているんです……。
お医者様は「命に別状はない」「一時的なものだろう」と仰っているんですが……。
どうなるか不安で……。



 天野と涼太の顔に緊張が走った。


天野勇二

記憶障害……。
昔のことを思い出せないんですか?

河瀬の母親

はい……。
自分の名前さえ思い出せないんです。
私たちのことも、友達のことも覚えてなくて……。


 目元を拭いながら言葉を続ける。


河瀬の母親

しかも、すごく精神的に不安定なんです。
記憶がないためか、私たちのことが怖いみたいで……。
ご迷惑だとは思うんですが、どうか結衣に、声をかけてやってくれませんか?



 すがるような表情で頭を下げる。


 母親は娘と天野たちが、どのような関係を築いていたのか知らない。


 それでも「少しでも記憶を取り戻すきっかけになれば」と考えているのだろう。


 天野はそんな心情を読み取り言った。



天野勇二

もちろんです。
行きましょう。



 病室を目指しながら涼太の顔を見る。


 力強く前を向いている。


 数日前は茫然自失ぼうぜんじしつの状態だったが、今は自分を取り戻しているようだ。


 涼太は天野の視線に気づくと、照れくさそうな笑みを浮かべた。



佐伯涼太

……大丈夫。
僕はいつも通りだよ。
もうヘマはしない。

天野勇二

ああ……。
わかってるさ。
さすが俺の『相棒』だ。



 涼太の肩を叩きながら告げる。



天野勇二

恐らく外傷性の逆向健忘ぎゃっこうけんぼうだ。
俗に言う『頭を打って記憶喪失になった』というやつだが、これはほとんどが一時的なもの。
重症化することはまれだ。


 涼太が神妙に頷く。


天野勇二

気になるのは『精神が不安定』という点だ。
心的外傷後ストレス障害PTSD』を起こしているのだろう。
刺激させないよう気をつけろ。
多少おかしなことを言い出しても強く否定するな。
周囲に拒絶されれば河瀬は心を閉ざしてしまう。

佐伯涼太

オッケー……。
わかったよ。



 天野たちはゆっくり病室に入った。


 親族と河瀬の友人たちが頭を下げる。


 数日前は無機質な病室だったが、今は色とりどりの花が並んでいた。


 サイドテーブルには手紙の束。


 『折り鶴』も飾られている。


 きっと友人たちが持ち込んだのだろう。


 それだけで河瀬の『人となり』を伺うことができた。





河瀬結衣

…………





 ベッドの上には1人の少女。


 身体を起こした河瀬の姿があった。



佐伯涼太

ああ……。
結衣ちゃん……。
良かった……。



 涼太が安堵あんどの息を吐く。


 天野は親しげに声をかけた。


天野勇二

おはよう。
久しぶりだな。


 河瀬はゆっくり天野を見上げた。




河瀬結衣

…………




 うつろな瞳で天野の顔を眺める。


 表情のない顔だ。


 感情が萎縮いしゅくしている。




河瀬結衣

………?




 小首を傾げる。


 天野から視線を逸らした。


 次に涼太の顔を見上げる。


 一瞬、うつろな瞳に光が宿った。



河瀬結衣

……涼太さん?



 病室にいた全員が河瀬の顔を見た。



 河瀬が初めて自発的に名前を呼んだ。


 初めて記憶を取り戻した。


 興奮にも似た緊張が走る。



 天野はすぐに涼太の肩を掴んだ。



天野勇二

落ち着け。
まだ喜ぶのは早い。
河瀬を興奮させるな。



 涼太は生唾を飲み込んだ。


 青白い顔の少女。


 由比ヶ浜で別れたきりの少女。


 もう顔も見たくないと、拒絶してしまった少女。


 あの時の後悔を振り払い、精一杯の笑顔を浮かべた。



佐伯涼太

うん……。
そうだよ。
僕は佐伯涼太。
結衣ちゃん、久しぶりだね。

河瀬結衣

やっぱり……。
あなたは、涼太さん……。

佐伯涼太

そうそう。
覚えていてくれて嬉しいよ。
ずっと結衣ちゃんに会いたいと思ってたんだ。



 河瀬の手がゆっくり上がった。


 指先が涼太に向けられる。


 何かを求めるかのように、指先がはかなげに動く。



河瀬結衣

涼太さん……。

あなたは、涼太さん……。

涼太さん……。



 何度もひとつの名前を呼ぶ。



河瀬結衣

あなたは『迷子の子供』……。

私にとって、誰よりも大切な人……。

すごく大好きな人……。

涼太さんは、私の『恋人』だったのかな……?



 涼太は驚いてその声を聴いた。


 ゆっくりベッドに近づく。


 膝をつき、青白い顔の少女を見上げる。


 優しく指先を握りしめ、自らの頬に当てる。


 そして言った。





佐伯涼太

そうだよ。
僕はね、君の『恋人』なんだ。






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つばこ

(´;ω;`)
 
 
念のため補足しますが、犯人である安江は逮捕されました。
女子高生を殴り倒して逃亡ですからね。
全国ニュースになってもおかしくないと思います。
さすがに警察も許せなかったのでしょう。
速攻で安江を逮捕しました。
もう天野くんたちが安江を処刑することはありません。
もしそれをちょっと残念に感じてしまうとしたら、天クソに毒されている可能性大です(`ω´)グフフ
 
エピソードも終盤です。
どうか『嘘』の行方を見届けてください。
いつも応援やコメント、本当にありがとうございます(`・ω・´)ゞ

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コメント 58件

  • 佐倉真実

    あ、ああ…涼太くん…( ; ; )

    もちろんそんな子じゃないと思うしそんな話じゃないと思うけど、もしこれブラフだとしたら、すぐバレるから気をつけてね…笑

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  • もち

    私も毒されてました

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  • ピカルディの3度

    あぁ…これが、嘘、なのか。
    よりにもよって、良太君にとって1番言いたくなかったであろう嘘。
    悲しい。

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  • ナニワの46兎

    涼太くんがパコ野郎だけど、優しい王子に見える…
    何故ですか?(T^T)

    そして天野くん安江の野郎をボコってくれると思っていたのに…(((┗─y(`A´)y-~ケッ!!

    私は天クソ中毒にされてしまった!!!!!!!

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  • ヽ(・∀・)ノ

    切なくて泣きました(T_T)

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