■歌が好きだった幼少期、ギターを手にした中学生時代
ーー大石さんは、どんな子供時代を過ごされたのでしょうか。
小さい頃から歌が好きだった子供だったと、両親から聞いていました。幼稚園の頃、「将来の夢」を書くイベントがあって、同級生たちは「ケーキ屋さん」や「ウルトラマンになりたい」と書いている中、そこに「かしゅになりたい」と書いていたそうなんです。ひらがなで(笑)。
両親も音楽が好きなので、僕が歌を歌っていると褒めてくれたんです。お風呂場でよく、当時流行っていた歌謡曲を歌っていると、毎日点数をつけてくれていたのはよく覚えています。子供心に褒められるのは嬉しかったですね。
ーー素敵なご両親ですね、ギターを持つようになったきっかけは?
中学校1年生の2学期ですね。僕の友達のお兄ちゃんがベースを弾いていたんですけど、それがとてもかっこよくて。そのお兄ちゃんは、僕の地元の中では、ファッションステータスの高いおしゃれな人だったので、「かっこいいな〜」と思ったんです。
ーーベーシストのお兄さんを見て、ギターを手にしたと。
当時の僕には、弦楽器すべてがギターに見えていたんです(笑)。その日の夜、すぐ祖母に、「ギターを始めたいから、誰かから借りることはできないかな」と相談したんです。そしたら、親戚からクラシックギターを借りてきてくれたので、そこからギターの練習を始めたんです。最初の頃は、サザンオールスターズ『愛しのエリー』、長渕剛『乾杯』のコピーをしたり、あとは、英語の先生が授業の教材として使っていたサイモン&ガーファンクルが好きだったので、タブ譜を買ったりしていました。
ーーギター初心者あるあるですが、コードに挫折した経験はありませんでしたか?
僕、むしろ学校生活そのものを挫折しそうになっていたんです。ちょうどギターを始めた同時期くらいから、クラス中から無視をされてしまういじめにあうようになって、学校に行くのが嫌になってしまったんですね。子供の頃はよくある話ですし、今となっては良き思い出ですけど。そこで、僕は負けず嫌いだったので、「あいつらが俺のことを無視している間に、俺はギターを上達してやる」と、それがモチベーションになっていた、おおげさな言い方をすると、生きる糧になっていたんです。
ーーストイックですね。
その後、中学校3年のときに、「あいつはギターができるらしい、歌が上手いらしい」と、噂になっていたようで。ウチの中学の「F4」ならぬ「F5」みたいなモテグループに誘われて(笑)、文化祭のステージに立ったんです。
ーー「F4」、『花より男子』に出てくる「花の4人組」のようなイケメングループに!
そうです。そこでステージの上でパフォーマンスをするだとか、それを人に見られるような楽しみを知りました。いじめられっ子だった中1から、F5に誘われステージに立った中3という、僕の中学時代を振り返ると、小説にできるんじゃないかってくらいのドラマがありましたね。
■バンド活動が本格化した高校時代ーー勇気のもらえる話です。
大石さんのご出身は愛媛県宇和島市です。本格的なバンドをやろうとなると、東京や大阪のような大都市圏に比べて、地方格差もあったかと思われます。
楽器屋さんは、かろうじて2軒くらいありましたが、ライブハウスやリハーサルスタジオはなかったですね。音楽的なインフラは整っていない田舎だったので、よくある高校生の心情ですが、あの頃は常にこの街を出て行きたいと思っていましたね。
ーーフラストレーションがあったと。
でも、今思えばなんですけど、それがよかったのかもしれません。高校2年生の時に、楽器屋さんの主催するバンドコンテストの県大会で優勝して、全国大会に出場したんです。愛媛県から、当時からしたら大都会の大阪へ遠征したりして。これは最初から都会に住んでいたら得られなかった成功体験だったと思うんです。地方だからこそ、そこで選ばれて、都会に出ていく、少しずつ段階を踏んで、次のステップに進むことができた。『ドラゴンボール』の天下一武道会トーナメントみたいに(笑)。
最初から大きなコミュニティーでしのぎを削るよりは、小さいコミュニティーで一番を取ってから、次に進んでいく方が、僕の性格的に合っていたのかな。もしもずっと東京で音楽をやっていたら、周りに才能あるヤツらばかりで、早々に諦めていたかもしれない。
ーー地方で育ったからこそ、今のご自身があるということですね。
そうですね、何せ宇和島にはリハーサルスタジオもなかったので、音楽をやる場所を自分たちで作るしかない。田舎なので土地はある、僕の家も多少敷地が余っていたので、父親が建築の資格を持っていることもあって「お前も手伝うなら、一緒に練習場所を作ってやるぞ」と、練習用の小屋を建てたんです。そこに当時のバンドメンバーと楽器を持ち寄って、毎日練習をするようになったという。
ーーそれはすごいですね!
そうなると、演奏をお披露目するライブハウスも、自分たちで作るしかない。自分のまわりで音楽を出せる場所を考えたときに、カラオケ屋のパーティールームしか思い浮かばなかったのですが、ただそこに機材を持ち込んだだけでは、ステージもないし様にならない(笑)。そこで酒屋さんからビールケースを大量に借りてきて、そこにベニヤ板を敷いて簡易ステージを作って、同級生たちを呼び込んでライブをしていました。
ーーDIYでライブをやっていたと。
あの経験があったからこそ、ステージを作ることの、裏方の大変さも知ることができました。もしこれが、都会のライブハウスに出るだけだったら、わからなかったかもしれない。田舎だったからこそ、自分たちで何かを作ることに情熱を燃やしていた。そんな学生時代でした。
■バンドメンバーは「同僚」である
ーーそして、関西の大学へ進学されたとのことで。
高校3年生の時には、もう音楽しか見ていなかったんですが、成績は悪くなかったんです。なんかなんだかんだで、一夜漬けが得意な男だったので(笑)。そして大学進学し、軽音楽部に入って、そこで組んだバンドがSound Scheduleです。
ーーSound Schedule は99年に結成され、01年にメジャーデビューを果たします
当時の関西のバンドシーンは、くるりのように大学の軽音楽部からプロになったバンドも出てきていて、世代的な盛り上がりがありました。僕らの対バン相手もorange pekoe、ガガガSP、今も親友のアルカラ、すごい人たちばかりで、そんな刺激的な環境もあったので、僕らも当初からメジャーデビューを目標にしていました。それに、僕たちは商業大学ということもあって、経営戦略も学んでいて、音楽以外の部分、例えば「どうやったらライブに人が呼べるのか」、「バンド運営のためにどうしたらいいのか」、そういうところに頭を使えたというか。特にドラムの川原くんは、そこも得意だったので、短期間でメジャーデビューが決まったのは、そういった背景もあったのかな。
ーーお話を伺っていると、プロになるまでの順風満帆だった印象を受けました。
たしかに、今言われてみれば、そうだったかもしれないですね。大学でバンドを組んで1年半でデビューするのは、周囲のバンドの中でも早かったと思うし。
ーーメジャーデビューし、大好きな音楽が仕事になった。アマチュア時代と意識の違いは生まれましたか。
いってしまえば「夢が叶ってしまった」状態ですよね。けれど、夢には2段階3段階とあって、夢を1段階叶えた後の方が大変だった記憶があります。もちろん、デビューしてからは優秀な大人の皆さんに気持ちのこもったサポートをしてもらい、テレビの音楽番組だったり、フェスにも出演させてもらったりしていました。でも、心の中でどこかバランスの悪さを感じながら、音楽をやっていたところはあります。今思えば、大人じゃなかったので、「(夢を叶えた)この後どうなりたいのか」という部分で難しく感じていて、自分を追い込んでしまったんじゃないかな。バンドも1回解散して、また復活しているからこそ、そうやって思い返せるというか。
ーー悩み抜いたからこそ、バンドを俯瞰して見ることができるようになったと。
バンドのメンバーって、いかんとも形容し難い関係性で、「友達」でもない、「兄弟」でもない……、1番近いのは「同僚」なんです。趣味ではなくプロとしてやっていく決心をした時点で、メンバーは同じ会社の同僚であって。一緒にひとつの仕事を成功させるための仲間なんです。それが1番しっくりくる。友達感覚でバンドを仕事にすると、いつかひび割れてくるというか。「このメンバーだからこそ!」という精神論も大切です。でも、仲間が大切であればあるほど「これは商売である」という考えが大事になってくる。それは僕も、一度バンド解散を経験してから学んだことですけど。
■人生には3度スポットライトを浴びる時がある。
ーー06年にバンドが一度解散したあと、ソロシンガーとなったわけですが。変化はありましたか。
めちゃめちゃありました。初めてのソロライブのことはよく覚えています。バンドのギターボーカルが、ひとりで歌っていると、お客さんは僕の後ろに他のメンバーの影を思い浮かべているのがわかってしまった。それが悔しかったというか、心に刺さっちゃって、ものすごく悩んだ時期がありました。
でも、僕は負けず嫌いなので、中学時代にいじめられていた頃と同じように、……って別にバンドにいじめられていたわけではないですが(笑)。それなら自分がステージでひとりでも存在感を放って、アコースティックギターでなんでもできるエンターテイナーになれば、バンド時代とは別の形で認められるようになるのではないかと。そこから、アコースティックギターの練習をはじめました。
ーーそこで技術を磨く方向にむかったと。
中学のときも「このFのコードを押さえない限りは学校に行けない」みたいな危機感を持って練習をしていたんですけど、ソロになってからも、自分がこのスキルを獲得しないかぎりは、この後生きていけないのではないか、そんな生命の危機みたいな感覚があって、死にものぐるいで練習していました。朝起きたらすぐギターを触って、食事を摂るのも忘れて練習して、気がついたら外が暗くなっている……みたいな。そんな時期がザラにありました。
音楽で生活するには、人に受け入れられなくてはいけないじゃないですか。「売れる」にしても定義は曖昧で、どうしたらいいのか、どこまで考えてもわからないもので。
ーーそればかりは結果論としかいえない部分はありますよね。
僕らにできることは、その確率を上げることしかできない。それも意外と運だったり縁だったりして、明確な法則があるわけでもない、だから、その後の音楽活動に対する不安を払拭するべく、ちゃんとしたスキルがあれば、何かあったときに自分にプラスになるんじゃないかと思ったんです。今でも、ものすごく忙しい時はきびしいけれど、ギターは練習しないと下手になっちゃうので、毎日ギターを触ることを当たり前にしておかないと、これまでせっかく身につけたものを放棄することになってしいますし。
ーーやはり、ストイックですね。この記事を読んでいる学生の方も、きっと夢を持って、それを実現させるためのやる気もあると思うんです。でも、技術が追いつかなくて焦っている人もいるかもしれない。そこで、練習に対するモチベーションの保ち方を教えてもらえないでしょうか。
それは難しい質問ですね。もしかしたら、誰かのインタビュー記事がひとつのきっかけにもなるかもしれないので、僕の持論をここに置いておきます。
ーーありがとうございます。
僕、人生に3回はスポットライトを浴びる瞬間があると思っているんです。それは音楽活動や夢にとどまらず、いい仲間が集まるだとか、いい家族のご縁に恵まれるとかも、そうだと思っています。形は違えと、絶対にスポットライトを浴びる瞬間は来るんです。そこで、世界に「何ができるの?」と、問われるんですよ。
僕にもその経験はあって、バンドでデビューして、30歳を越えてから、アニメソングで日の目を浴びたわけですけど、そこで問われたとき、「実はこんなこともできますねん」と、歌やギター演奏、作詞作曲、アレンジ……これまで貯金してきたスキルを出すことができる。僕は「スキル貯金」と呼んでいるんですけど。
ーーいつかのために下ろせる貯金は、沢山あったほうがいいと。
よく、「努力は必ずしも報われるわけじゃない」というじゃないですか。でも僕は「努力は必ず報われて“いい”」と思っているんです。悲しいじゃないですか、報われないかもしれないって思いながらやる努力って。それこそモチベーションも下がると思うので、一緒に「人生3回はスポットライトを浴びる」説を、一旦信じてもらって、そこに向かって努力をしてもいいのではないでしょうか。もし、自分がスポットライトを浴びていることに気づいていなくても、周りは必ず評価していると思います。そこで「本人は気づいてないかもしれないけど、スポットライトを浴びている中でちゃんとしているな」と思わせたら、勝ちじゃないですか。
僕は業界的には晩年、30代になってからスポットライトを浴びたのですが、それがよかったと思っています。これが22歳くらいで浴びていたら、スキル貯金もできていなくて、慌ててしまっていたかもしれない。「その時」がいつ来るかわからないから、練習し続けるのだと思います。
取材・ライティング:藤谷千明