長めの話が多かったのでまとめました。Twitterログです。
追記:脱字を見つけたので修正しました
『名前を呼ぶ』
それは、ほんの好奇心から端を発したものだった。
「なあ、隠岐。俺のこと下の名前で呼んでみてくれへん?」
「なんでですか」
「いやー、そういえばお互い下の名前で呼んだことなかったような気がすると思て」
「そうでしたっけ?」
小首を傾げて尋ねるその顔は、知ってるはずの事をまた確認するような、そんなしらっちゃけた空気があった。
「俺の覚えてる限りでは」
「呼ばなきゃダメですか?」
何故、ただ名前を呼ぶだけなのに、こうも渋るのだろうか。この少年は、嫌ならば、はっきりとそう言う質の筈だ。是とも否とも言い難いリアクションに困惑してしまう。
「そんなに嫌? 名前で呼ぶの」
「別に嫌という訳じゃ……」
「一回でかまへんから呼んでくれんか、孝二」
こちらが名前を呼ぶと、隠岐は目を見開いて、今言われた事が信じられないとでも言いたげに自分の右耳に指を触れ、「えっ、あっ、は?」と意味の成さない呻きを発している。内心、そこまで狼狽するのかと、想定外の反応に驚いていると、あちこち揺れていた瞳が、こちらに焦点を合わせた。そして、たっぷりの水を入れた薬缶も沸くのではないかと思われる程の時間が過ぎ去った後、彼は自分の下の名前を呼んだ。
「…………達人さん」
震えがちの声は、蚊の鳴くようなそれより小さく、顔はこれ以上はないと言えるほど真っ赤で。
それなりの期間を経て、人には言えない事もやっているというのに、名前を呼ぶだけでこんな表情を見せるのかと喜びやらなんやら色々な感情が押し寄せて、呆然と立っている事しか出来なかった。
『夏の一幕』
ミーン、ミーンミンミンミーン……。
あの特徴的な蝉の鳴き声で、今年も熱気みなぎる季節がやってきたのだと思い知る。この暑さでは、屋根のある所で涼むことしか考えられず、自然と足取りが早くなった。二階建てのアパートの階段を上がった角部屋。そこのドアの前まで歩き、慣れた手つきで鍵を差し込み中に入る。
「こんにちはー」
「ほぉ、ふぉき……、暑かったやろ。冷蔵庫の中に麦茶あるから飲み」
目の前には、スプーンを口に咥え、今まさにアイスクリームの蓋を開けようとしていた生駒がいた。こちらを呼びかけた時はまだ噛んでいたが、そのまま喋るのはよろしくないと判断したようで、口内に留まっていたそれを取り出し、いつも通りのはっきりとした口調でこちらを気遣った。
「ありがとうございます。……夏、はよ終わらんかな」
「意外とあっちゅう間やぞ。まあ、美味いもんでも食って耐えようや」
「……そうですね。ところで、今度は何味にしたんです? アイス」
「珈琲バニラ。一口食うか?」
「いただきます」
会話をしている間に蓋を開けた生駒は、一口と言うには、やや多めにアイスを掬ってスプーンをこちらに向けた。こんな時に、甘やかされているなと実感する。自分の口の前に持ち上げられたスプーンを、僅かに屈んで咥え、舌先に冷えた甘味を乗せる。その名の通り、コーヒーとバニラ味のアイスが交わって絶妙なバランスでお互いを引き立てあっていて美味しい。ふと、悪戯心が湧いて、最後に口を開いた際に、生駒の瞳を見つめながら、スプーンの先端をちろりと舐めてから抜き取ってみせた。
「うわっ、やらしいなあ」
「そう思うのは邪な目で見とるからとちゃいます?」
「まあ、否定はせんけど」
そう言いながら、先程自分の口に含ませていたそれを、生駒はべろりと舐め上げてアイスを掬い上げた。その一連の行動に、室内だというのにジリジリと体内の温度が上昇するのが分かる。
「イコさん、立ったまま食べるんですか?」
「テーブルまで移動するのがなんや面倒になってしもて。行儀悪いけど堪忍な」
「いえ、お気になさらず」
冷蔵庫から麦茶を取り出して飲み干している最中も、彼の挙動に視線が釘付けだった。例えば八重歯が目立つ歯や、幅広で肉厚な舌、そして角張った印象を受ける手だったり。その部位に、陶酔を覚えながら見つめていると、生駒はアイスから此方へ目を向けた。刹那、瞳を見つめ合った後、生駒は唐突に後頭部を掴んで口付けをお見舞いしてきた。
「別に俺は逃げんから、そないな目で見とらんでも大丈夫や」
「……どんな目です?」
「今すぐ俺をひっ捕らえて食いたいっちゅう目。もうちょい待ってな。ええ子にはご褒美ちゃんとあげるから」
「絶対ですよ」
向かい合う彼の瞳は、こちらを焼き尽きさんとばかりに燃えていて、脳みその中をぐわんぐわんと揺らしてくるような威力を持っていた。
早く、食べ終わらないかな。そうしたら、今度はおれを食って欲しい。
『カップ麺』
「腹減ったな」
「ですねえ」
時刻は深夜。まだ明け方には程遠いが、兎にも角にも腹が空いて仕方ない。何しろ、激しい運動をした後なので。
「せやけど、時間がなぁ……」
「一緒に食べれば、罪も軽くなるんちゃいます?大人しく、腹の音には従った方がええと思いますけど」
「……せやな。本能には勝てへんし」
幾許かの逡巡があったが、食欲には抗えない。ここは食っておいた方が無難だろうと結論付けて、生駒はベッドからのそのそと出て行った。それに続いて隠岐も床に足を着ける。その間にも、生駒はシンクの下にある両開きの扉を開けていた。
中には、直方体やほぼ円柱のような形など色々な容器に入ったインスタント食品がいくつか詰まっている。
「色々ありますね。どれぐらいの頻度で食べてるんです?」
「月に二、三回ぐらい。自炊の方が節約になるし、体にええし。疲れて料理が面倒な時に食べる程度やな」
「マメですねえ。おれは結構コンビニで済ますことも多いですよ」
「毎日やるとなるとキツいしなあ。程々に調節すればそれでもええんちゃう?」
鴛鴦のように身を寄せ合って、会話を交わしつつ中身を吟味する。
「どれにしましょうかね。……イコさん、何か期間限定の妙な味多くないですか?」
「いやー、期間限定って心惹かれるものがあるやん?」
「気持ちはわからんでもないですけど。これ、定番の味を探す方が苦労しそうですね」
「そうか?意外とあるで。普通のソース焼きそばとか」
「あっ、ほんまや。……これ、賞味期限三ヶ月ぐらい切れてますけど」
「マジか。最近整理してへんかったからな。捨てるのも勿体ないけど食わん方がええな」
「一ヶ月ならともかく、三ヶ月なので微妙ですね」
「ちょい待ち。お前一ヶ月切れのやつ喰うたことあるんか?」
「ありますよ。結構イケました」
「賞味期限切れても食えるんやな」
「まあ、あくまで『賞味』ですからね。消費期限なら流石にアウトでしょうけど」
「せやろな。それとこれとはまた違う話やし」
「じゃあこれは避けとくとして、どれにします?」
「あー……、もう目つぶって適当に掴んだ奴でええんちゃう?」
「ロシアンルーレットみたいですね。まあ、正直考えるの面倒ですし、それにしてみましょ」
思考が鈍った者による提案を、これまた脳が鈍となっている人物が受け入れ、運試しと相成った。
結果、生駒が取ったのは塩焼きそば、隠岐の方はチリトマトである。
「割と普通のになりましたね」
「ん。湯を沸かすから、少し待っとって」
そう言って生駒は、薬缶に水を入れ、ガスコンロに火をつけた。
隠岐は、眠気が尾を引いてるのか、少し目を細めてテーブルの前に座っている。
「人間はどうして腹が減るんでしょうね」
「そりゃあ食べないと死ぬからやろ。そんで、腹の音はそろそろ食わんとヤバいっちゅう報せやな」
「うーん、文明も発達しましたし、もうちょい効率よく栄養摂取できるもんが出てきませんかね?」
「いや、そういうのが仮に出てきたとしても、料理は永遠に新しいのが開拓され続けるし、緊急時とかを除けば普段の食事を食っとるんやないかな」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって、人間の食に関する好奇心と探究心ってすごいやん」
「……確かにそうですね」
「それに、隠岐にも好きな食べ物あるやろ?それを食べへん生活って味気ないと思わんか?」
納得のいく論理である。頷いて、改めてその言葉を咀嚼していると、会話は一旦終結し、水が沸騰しようと薬缶の中で揺れる音だけが響き渡る。
ぼんやりとした頭で生駒の背中を見つめる。スウェットに覆い隠されたそこには、自分が付けた引っかき傷が多数残っているのだろうと容易に推察できた。ふと、この人はそんなことを微塵も感じさせずに生活するんだろうなと思い、何だか笑いそうになった。
昨夜、この人はおれとセックスをしたのだ。知ってるのは、本人と自分だけ。その事実に、口角が上がるのを止められそうにない。それが当たり前だと分かってはいるが、只々嬉しくてたまらないのだ。
「隠岐、どないしたん?そんなわろうて」
「なんでもないんで気にせんといてください。あっ、薬缶のお湯沸いてますよ」
返事が雑なものになってしまったが、性行為の後という事で許して欲しい。
そんなこんなで、お湯をそれぞれの容器に注いで、三分。話をするのが億劫で、お互い黙りこくって、時が来るのを待つ。そして、セットしていたタイマーが鳴り、生駒は湯切りをするために流しの方へ、隠岐は二人分の箸を出して蓋をそっと開いた。
そのタイミングで、生駒もテーブルの前に座った。
「イコさん、そこに箸置いときましたよ」
「おおきに。じゃあ食べるか」
「いただきます」
二人揃って手を合わせて、食事の時の挨拶をすると、些か性急にも見える動きを見せて食べ始めた。
空腹の胃を刺激する芳しい匂いに、食欲が改めて湧き溢れ、涎が垂れそうになるのを何とか抑えて、カップラーメンに口をつける。柔い麺を噛み切り、スープを一口。チリトマトは久々に食べたが、こんなに美味いものだったか。空腹は最高のスパイスと言うし、食した当時と比べて味覚が変わった可能性もある。だが、そんな事は、この充足感の前には全て無意味だ。一気に半分程食べ終わったところでふぅ。と軽く息を吐いた。向かいに目を移すと、生駒はまだ塩焼きそばを食べ進めていた。大口を開けて食す様は、見ていて清々しい程だ。しばらくすると、彼はこちらの視線に気づいて、箸を置き会話を始めた。
「どうして夜中に食う飯ってこんなに美味いんやろうな」
「罪悪感と背徳感が他の時間に比べて増し増しになるからとちゃいます?」
「やっぱりか。なあ、隠岐のチリトマト一口くれん?」
「イコさんが塩焼きそば寄越してくれるなら良いですよ」
「勿論そのつもりやったわ。ほいどうぞ」
「じゃあ、こっちもどうぞ」
互いのものを交換してそれぞれのタイミングで口に運ぶ。
塩焼きそばもやはり美味い。この過剰にも思える塩気で思考が冴えていくのが分かる。うっかり全部食べそうになるのを抑えて、容器をテーブルの上に置いた。生駒の方も、丁度スープを飲み終わり、追従するように食べるのを止めた。そして、互いに食べていたものを交換し、自分のものが手元に返ってくる。
「おおきに。ごちそうさん」
「いえ、こちらこそ」
「飯食べたら、なんや目が覚めてもうたな」
「奇遇ですね。おれもです」
「じゃあ、ゲームでもする? 延長戦ってことで」
「そうですね。こうなったらとことん夜を満喫しましょ」
そして、その日は二人とも欠伸を連発しながら生活することとなったのは、また別の話。
『服を借りる』
「スマン。隠岐。たった今、お前の服うっかり洗濯機の中突っ込んでもうた」
起き抜けに言われた一言は、寝ぼけていた脳を覚ますのに充分なものだった。
「ほんまですか」
「はい。ほんまです」
目の前にいる生駒は、正座をして、神妙な、見る人によっては普段通りにも見える、顔をしている。
「あらら……」
「ごめんな。今日約束あるって聞いとったのに」
「まあ、そういうこともあるでしょう。気にせんといて下さい」
表情や物言いから、本気で申し訳ないと思ってるのが伝わってきて、怒る気にはならなかった。元から、自分はこの人には甘くなってしまうところがあるのも大きいが。
「隠岐がほんまに寛大な子やな……。そんでな、あこのクローゼットから着れそうな服取ってってほしいねん。多分何かしら入るのあると思うから」
「はい、分かりました」
朝食を作ると言って、立ち上がる生駒を尻目に、隠岐はクローゼットのある方へと向かう。
さてさて、生駒はどのような服を持っているのだろうか。毎回、共に出かける度に様々な格好をしており、そのどれもが彼に似合っていて、この人は一体、何着ぐらい持っているのだろうと疑問をふつふつと浮かべていた。
おそらく、着るのを躊躇うような服は入ってないだろう。
贔屓目も幾分か入っているだろうが、生駒のファッションにおけるセンスはなかなかのものだと思う。ただ、自分とは割と服の系統が違うので、それなりに似合うものがあるだろうかと、少しだけ心配しているが。
例え、深い関係にある生駒のものだとしても、人のクローゼットを開けるのが何となく忍びなくて、思わず、そろりと職員室に入る時のような声を上げた。
「……失礼しまーす」
「失礼されますー」
小さな声で言ったはずなのに、生駒はそれを聞きとがめたらしい。地獄耳かと内心ツッコミを入れつつ、そこに収められた服を眺める。中に収められたそれらは、各々が着て欲しいと主張するかのような存在感を放ちながら、大人しくそこに収まっていた。
その矛盾した出で立ちに何だか笑ってしまいそうになるのを抑えながら、改めて中を検分する。シンプルなものからポップな柄が入っているものまでバリエーション豊かで、軽く手に取ってみると素材感もバラバラであることが分かる。ただ、一貫して共通しているのはどんなものでも遊び心があるデザインであることだった。一見、何の変哲もない白シャツのように見えても、袖を裏返すと模様が入っていたり、猫のような生き物のワッペンが付いているものもある。確かにいいデザインだ。ユニークで見ていて面白い。だがしかし、これは自分が普段着る類の服ではない。
柄物より無地を好むし、少しきれいめのカジュアルなものを愛用している。
「あー……、どないしよ」
「見当たらんか? 着れそうなの」
「いや、えっと、ええ服だなとは思うんですけど、自分じゃあんまり着ない感じやったので、少し途方に暮れてたんですわ」
「いつも隠岐はもっとシンプルなの着てるもんな。……ちょい待ち、確かちょうどええのが奥にあったはず」
視線を斜め下の方へ移して考え込む素振りを見せた後、生駒が、手を差し込んで、いくつか服を出しては床に置くのを繰り返して取り出したのは、紺の、丈の長そうなカーディガンだった。
「イコさんのにしては地味ですね。これ、あんまり着とらんかったのですか?」
「ああ。デザインとか好きやったんやけど、思ったより丈が長くてな。着るとあんまり見栄えがようなくて。通販で買うと、やっぱり、こういうことがたまに起きてしまうんよ。でも隠岐なら、これ、ちょうどええんちゃう?」
差し出されたそれの手触りを、ほんの少し撫でて確かめる。それは外側は麻を使った服のように軽くざらりとしているのに対し、内側はサラサラとしていて柔らかだった。畳まれていたのを広げてみると、なるほど。確かに自分にぴったりそうだ。とは言え、着てみないことには確信が持てないので、袖を通してみる。
「おお……。やっぱりイケメンは何でも似合うな」
「だからイケメンやない言うとるでしょ」
やはり、この服は自分にピッタリのサイズで、その着心地の良さから質の高さが窺える。思わず、軽くターンしてみると、ふわりと裾が舞うのが見て取れた。
「これ、もしかして結構ええところのやつですか?」
「せやな。死蔵してたし、着てもらえて服も喜んでるんとちゃう」
相手の懐具合を探る不躾な質問だと、発した後に気付いて焦ったが、生駒は流れるように素直に答えた。どうやら、不快な思いをした訳ではなさそうでほっとした。
「じゃあ、これ、お借りします」
「ん。中はシャツでも合わせればよさそうやな。それだと、何がええかな」
そう言って生駒は、色々なシャツを床に積んで、自分の前にあてがって、首を傾げ、考え込む素振りを見せた後、次々と別の服をあてがっていく。何だか着せ替え人形にでもなった気分だ。それが幾度か続いた後、ようやく決まったらしく、その手を止めて、こちらに服を差し出した。
「ほい。これならええんとちゃう?」
それは、白シャツと見せかけて、首に当たる箇所に黒に白の水玉模様の布があしらわれた一品だった。袖を通してみると、こちらも丁度いいサイズ感だった。
「確かに。じゃあ、お借りします」
「おう。いやー、同じ服を着ても、俺ではこんな雰囲気にならんやろな。顔の系統と身長的に」
「ああー……」
「そこで納得した声出されるのも複雑なんやけど」
「そういう声を出さざるを得ない話題を振ったのはそっちでしょ」
「せやな。っと。そういえば、後で洗濯しよ思て避けといてたからズボンは無事だったんよ。今取ってくるわ」
ほんの何秒か過ぎ去り、生駒はズボンを持ってきて、こちらに渡した。それを履き、鏡の前に立って借りたものと相性が悪くないか確かめる。これなら大丈夫そうだと結論づけて生駒の方を振り返った。
「どうですか?」
「似合っとるよ。雑誌から出てきたみたいやわ」
「おおきに。……そろそろ朝飯食わなあかん気がするんですが」
待ち合わせの時間が差し迫っているのを思い出し、時計へ視線を向けると、残り一時間程で、目的地へ着くまでの時間を推定し、軽く逆算してから、やはり朝食を食べた方が良さそうだと思い直した。
「せやな。後は食パン焼くだけやからすぐ出来るぞ」
「お皿出しましょうか?」
「ん。頼むわ」
この短い時間に色々あったが、今日は何だかいい日になりそうだと、そんな予感で心が躍った。