イエズス会の日本戦略

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イエズス会のザビエルは日本を侵略する目的で1549年に来日しました。

イエズス会は歴史の一時期にだけ日本に影響を与えたのではなく、

今に至るまで暗躍し続けてきました。

サンライズミニストリーさんの「アンカー」(2009年6月号)より抜粋します。

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イエズス会の策動 E.G.ホワイト

「このとき(ジュネーブに於いてファーレルとカルバンが宗教改革の旗を揚げた時)、改革事業に一大危機が訪れた。ジュネーブに対して法王の破門が宣言され、強国がこぞってジュネーブを威嚇した。これまでしばしば国王や皇帝を屈服させた強力な教権に、この小さい都市がどうして対抗することができようか。世界の偉大な征服者たちの軍隊に、どうして対抗できようか。

 

プロテスタント主義は、全キリスト教国に於いて恐るべき敵に脅かされた。改革事業の最初の勝利の後、ローマはプロテスタントの全滅を期して新たな勢力を奮い起こした。

この時、法王教の全闘士中、最も残酷で無法で強力なイエズス会が創設された。

彼らは、世俗の絆や人間関係から切り離され、人情も理性も良心も一切を無視して、彼らの会以外のどんな規則も絆も認めず、ただ、その権力を伸張することだけを義務とした。キリストの福音は、その信者達に危険を冒し、苦難に耐え、寒さ、飢え、労苦、貧困にもめげず、真理の旗を掲げ、拷問も投獄も火刑も恐れない力を与えてきた。この勢力に対抗するために、イエズス会は、その会員を狂信的にさせ、同様の危険に耐えるように、またあらゆる欺瞞の武器をもって真理の力に対抗するようにさせた。彼らは、どんな犯罪を犯しても罪にならず、どんな欺瞞を行っても構わず、どんな偽装もわけなくできた。彼らは、一生の間貧困と質素な生活を送ることを誓ったが、その目的とするところは、富と権力の獲得であり、プロテスタント主義をくつがえし、法王至上権を復興することであった。


彼らは、会の会員として活動するときは聖衣をまとい、牢獄や病院を訪ねて病人や貧者に奉仕し、世俗を捨てたことを公言し、よい働きをしながら巡回されたイエスの清い名を帯びていた。しかし、この潔白な外観のかげに、しばしば、極悪非道な目的が隠されていた。目的は手段を正当化するというのが、会の基本原則であった。この規定によって、虚偽、盗み、偽証、暗殺などは、教会のために役立つならば許されるだけでなく、賞賛すべきものであった。さまざまな偽装のもとに、イエズス会の会員たちは、国政にまで手を伸ばし、国王の顧問の地位について、国家の政策をまとめた。また、人々の様子を探るために、そのしもべとなった。彼らは、王侯、貴族の子弟のための大学を設立し、一般の国民のための学校を建てた。そして、プロテスタントの親の子供たちは、カトリックの儀式を守るように影響された。ローマ・カトリックの礼拝の華麗な様子は、心を混乱させ、想像力を眩惑し魅惑した。こうして子供たちは、彼らの父たちが苦難と血によって得た自由を売り渡してしまった。イエズス会は、ヨーロッパに急速にひろがった。そして、彼らの行ったところは、どこでも法王権が勢力を回復した」(大争闘上293-294)。

イエズス会の目的は?

「富と権力の獲得であり、プロテスタント主義をくつがえし、

法王至上権を復興することであった」(同294)。

1.富の獲得
2.権力の獲得
3.法王至上権の復興


イエズス会の2面性

1.表の顔  =徹底した善行、奉仕
2.本当の顔=「最も残酷で無法」「極悪非道な」やり方

「彼らは、世俗のきずなや人間関係から切り離され、人情も理性も良心もいっさいを無視して、彼らの会以外のどんな規則もきずなも認めず、ただ、その権力を伸張することだけを義務とした。キリストの福音は、その信者たちに、危険を冒し、苦難に耐え、寒さ、飢え、労苦、貧困にもめげず、真理の旗をかかげ、拷問も投獄も火刑も恐れない力を与えてきた」(同293)。

 

◆日本人が知らない恐るべき真実研究ノートより。

イエズス会の正体 2006年9月27日

米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用。

イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。

まず最初に宣教師が来た。

それから外国の軍隊がやってきた。


日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。

 


しかし、神は、ひとりのプロテスタントの船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。

そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。


将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを意図とするローマの悪名高き陰謀システムを意味する」。
 

徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。


1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」。


■イエズス会のねらいは何か?

 

イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。
(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)
イエズス会は、日本からその後250年間追放された。そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、繁栄と、平和とをもたらした。

 

「将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった。


常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。


将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。


1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された。1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。


この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。


1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。

ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。


太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。


親愛なる真実の探求者の皆さん。(略)

米兵はプロテスタント憲法の下にアメリカの自由のために戦ったのではなく、ただイエズス会総長とよこしまなあのトレント会議の報復のために「偉大な神の栄光」のために戦っていたのであることを知ってほしかった。その神とは聖ペテロの椅子に座している神のことであることを覚えてほしい。」


まとめ:
1.1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に上陸。南蛮貿易が始まった。
「日本では徹底して『上層部をつかむ』という布教を行っており、エリート層を握ることでバチカンの戦略を『上から』遂行しようとしている」赤間剛「バチカンの秘密」361。
「日本の貴族多数を改宗させ、大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた」。


2.戦国時代におけるイエズス会の関与
「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった」鹿島曻の『昭和天皇の謎』。

 

3.織田信長とイエズス会
ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になる。
イエズス会に好意的であった。
1549年のザビエルによる日本開教以降、日本イエズス会は着実に日本における地歩を確立していった。1570年までに3万人の信者を獲得し、九州から畿内までの西日本各地に40もの教会をたてた。ヴァリニャーノが来日した1579年までに信者は10万人となっていた。在日イエズス会員の人数も、1565年に12人だったのが、1579年に55人、秀吉による宣教師追放令が発布された1587年には111人となっていた。高橋裕史著「日本のイエズス会」、「イエズス会の世界戦略」参照。


ニッケイ新聞 2009年4月16日付けnikkeybr@nikkeyshimbun.com.br
日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(5)=売り渡したのも日本人=晴天の霹靂、驚愕する秀吉より引用。


戦国大名・織田信長はイタリア人のイエズス会宣教師からアフリカ系奴隷を献上され、弥助(ヤスケ)と名付けて武士の身分を与え、家来にしたとの記録がある。フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、現在のモザンビーク周辺出身の黒人だったようだ。
「元々は宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正九(1581)年、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れられていたのが信長の目にとまった。信長は最初、肌の黒さが信じられず彼が身体に何か塗っているのかと思い、二月の寒空の下でたらいに入れて家来に体を念入りに洗わせたが肌が黒いままだった。肌の色の黒い人種がいることを理解した信長は彼に興味を持ちヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。信長が彼を『ヤスケ』と名づけ武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らってくれたことに大いに感謝し、忠実に仕えたと言われる」。


◆Wikipedia 記事検索:日本キリスト史より:
「織田信長6 信長と黒人武将「弥助(ヤスケ)」本能寺の変が起きると、「ヤスケ」も明智軍と戦いましたが信長に脱出をうながされ二条に向かいました。
二条城では信長の長男、信忠勢として戦い、多くの敵を倒したものの、捕らえられたといいます。
目の前に居る黒人を理解できない光秀は「ヤスケ」を「人ではないから殺すに及ばす」と言って、宣教師に引渡し国に返すように申し付けました。この家来は名を弥助(ヤスケ)といいましたが、そもそも、なぜ戦国時代に黒人が日本にいたのでしょうか。
黒人(ネグロイド)は、元々はアフリカ大陸を中心に暮らしていましたが、ヨーロッパ人からの侵略を受け、奴隷として徴用された歴史があります。徴用された黒人達は、ヨーロッパ人がその活動域を広げた時代、つまり大航海時代(15世紀中頃~17世紀中頃)に、ヨーロッパ人達の奴隷として、世界中の国に連れて行かれることになりました。
日本にも宣教師が黒人を連れてくることがあり、弥助もイエズス会の宣教師が奴隷として連れてきた黒人の一人でした。その後の「ヤスケ」がどうなったかは解りません。日本を離れた事だけは確実なようです。
織田信長にしても、その後継者である豊臣秀吉にしても、当初はキリスト教の庇護者であった。特に秀吉は一五九二年に朱印船貿易を始め、持ち込まれる希少品の数々に魅了されていた。
というのも、信長は仏教に対して不信感が強かった。反信長の急先鋒であった本願寺が、日本全国の一向一揆を動員して徹底的に抗戦し、苦しめたからだ。その力を削ごうと、異教の布教を許したと考えられている。
しかし、秀吉はキリスト教徒による仏教徒や神道徒迫害が増えたことを憂慮し、さらに1587年の九州平定を経て、日本人奴隷のありさまを見るにいたって、考え方を一変させる。
『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、1995年、158~160頁)には、次のような記述もある。
「南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。(中略)『バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様』といった記述に、日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる」。
誰が売ったかといえば、それもまた日本人だった。『ブラジル史』でアンドウは「ポルトガルで奴隷として売られた日本人は、九州地方のキリシタン大名によって売られたものである」(63頁)と書く。

アフリカで黒人をポルトガル人に売り渡したのは、黒人自身であったが、日本においても同様のことが起きていたようだ。(つづく、深沢正雪記者)


大友宗麟(そうりん)が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。
九州のキリシタン大名大友宗麟は、カトリックの宣教師に煽動されて、永禄四年、宇佐八幡宮を焼いた。天正九年十月八日には、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いたと。(251頁)
大友宗麟は、カトリックの極悪悪魔主義者たる宣教師と、ポルトガルの商人から、火薬の原料硝石を輸入するために、豊の国の神社仏閣を焼き払い、若い娘たちを奴隷として、売り払ったと。
このような人物こそ、日本史上極悪の民族への裏切り者、売国奴、国賊、として特筆大書され、徹底的に日本国民に教えなければならないのではないか。
しかし、大友宗麟のみでない。日本人キリスト教徒は、全員大友宗麟と同類の顕在的また潜在的な売国奴、ではないのか。
鬼塚著「天皇のロザリオ」が、今から、広く、日本民族有志によって熟読されるべきことを、再度訴えたい。


4.豊臣秀吉とイエズス会
秀吉は、最初は好意的であったが、後に憎悪に転ず。宣教師追放令、鎖国政策を始める。


◆Wikipedia記事検索日本キリスト教史より引用:
「しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって無数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けているとの報告を聞き、激怒した。また秀吉は日本人が奴隷となって海外に売られている実態も知り、九州征伐完了直後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚して、当時ポルトガル商人によって行われていた日本人奴隷の貿易をやめ、海外の日本人を帰国させるよう命令する。
しかしコエリョは、奴隷をポルトガル商人に売る日本人が悪いと開き直り、日本人に対して行われた奴隷貿易を黙認した。宣教師達がポルトガル奴隷商人に対して「奴隷購買者破門令」を発布したのは、日本二十六聖人が殉教してから10年後の事であった。
この態度に激怒した秀吉は、懲罰的な意味から伴天連追放令を発した。コエリョは有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した。有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。
一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師達は立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。
しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入って

の直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化した事で、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。
サン・フェリペ号事件(1596年)でスペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインによる領土拡大の手段である」と発言したこと、日本人の奴隷貿易・人身売買とスペイン人や宣教師の関係が疑われたことなどから、宣教師とキリシタンの命運は決定的となった。秀吉は当時のキリスト教宣教の危険性を認識し、1597年には京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。フランシスコ会は当時スペインの庇護によって活動していた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。」


5.徳川家康とイエズス会
徳川家康は貿易継続。1600年に、豊後(今の大分県)に漂着した一隻の船があった。イギリスのウイリアム・アダムスとの出会い。彼はプロテスタントであった。家康の外交顧問として仕え、日本の女性と結婚し、武士とされ、三浦按針と名ずけられる。
三代将軍家光、鎖国の制度を確定し、250年間にわたる江戸幕府の基礎を築いた。


◆Maimaikaburi 2006年4月18日より;
キリシタン弾圧の本当の理由
 

「日本に来たザビエルなどのイエズス会の宣教師を純粋なカトリック教徒(キリシタン)だと考えると事の本質を見間違えてしまう。そもそもイエズス会とは、改宗ユダヤ教徒の影響下にあった集団だったのだ。それだけではない、ポルトガルやスペインが世界中に広がっていった時期カトリック教会はユダヤ人に操られていたのである。十字軍の遠征でさえユダヤ人によるエルサレムの奪還が目的だった可能性があるのだ。


奴隷売買や植民地からの搾取はイエズス会主導で行われた一大事業だった。しかし、そのことに戦国大名は気付いていた。始めにそれに気付いたのが織田信長であり、彼らから火薬を得るための取引はしたが、何れは(火薬の原産地を手に入れたら)切るつもりだった。そして秀吉の中国への侵攻は、スペインやポルトガルから日本を守るための派兵であった。その手始めとして秀吉はキリシタンの弾圧を行う。その理由はキリシタン大名が日本の女性を奴隷として火薬と交換する取引(その結果50万人がヨーロッパに連れ去られた)を始めたからだ。
つまりキリシタンはまさに外道だったのだ。火炙りで殺されるのも当たり前のことだったのだ。キリスト教徒に都合の悪い話は日本の歴史では一切出てこない(GHQなどによる歴史の改ざんである)が、イスラムの国では恐らく教えているのだろう。


何も罪のない人達を殺すほど信長や秀吉は狂ってはいなかった。国内における延暦寺や一向宗に対する焼き打ちも理由は同じだったのだ。寺社が穏健になったのは信長の統治以降なのである。」


6.1854年イエズス会、ペリー艦隊を送る
イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。
 

7.1868年7月 ええじゃないか騒動 
ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌明治元年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に酒とで昼も夜も踊りまくった。フリーメーソンの自由、平等、博愛の波が押し寄せてきた(フリーメーソンの上にイルミナチ、その上の最高院にイエズス会が君臨していることを覚えなければならない。)


8.1913年、イエズス会の上智大学が国会議事堂の最も近くに設立された。


9.そして2008年2月、イエズス会の総長に上智大学で組織神学を教えたニコラス神父が選ばれる。

ここまで許した日本はどうなるのだろうか?

「彼らが行ったところはどこでも法王権が勢力を回復した」(大争闘上294)。

あの有名なインサイダーであり、「血の鍵」の著者マラキ=マーチンによれば、

現時点ではイエズス会総長がローマ法王に命令する上位の立場にあるという。

「ブラックポープ=闇の法王」とも言われている。

                            抜粋は以上です。

 

尚現在のイエズス会総長は、第31代総長アルトーロ ソーサです。