すれ違う想い
私は、瀧川泉が好きなんだと思っていた。ちゃんと心から、瀧川泉のことが好きなんだと。
でもそんなのただの勘違いだったんだろうか。私の気持ちが、足りなかった?
『吉香の気持ちがもっと大きかったら、たぶん俺は吉香を選んだよ』
瀧川泉の残像。濡れた茶色い瞳。寂しそうな背中。遠ざかる、背中。私は瀧川泉の何を見てきたんだろう。
「吉香?」
気がつくと目の前に麻林がいた。相変わらずの金髪がふわふわと揺れている。
その先には見慣れた教室の風景。人間とは不思議なものだ。何かに心を囚われていても、ごく自然に習慣的に、行くべき場所にたどり着くらしい。
「入るのか入らないのかハッキリしなさいよ」
「……入ります」
ごめん麻林、今日はあんまり元気が出ない。出るわけがない。
背中に突き刺さる優しい視線には気づかないふりをして席に着く。窓の向こうに目を向けると、いつか瀧川泉と見た青空が広がっていた。
……ううん、違う。空は毎日違う。同じ空は二度とない。瀧川泉と見た青空は、もう二度と見れない。
瀧川泉も今、この空を見ているのかな。何を思いながら見ているのかな。
時間というものは待ってくれない。さて、どうしたものか。
放課後、部室、目の前には瀧川泉。麻林が鍵を開けて先に入って、次に幸人くんが入って、私が最後だったから扉を閉めようとしていたんだけど。
今朝の残像がよみがえる。瀧川泉はしばらく私と目を合わせたかと思えば、ふいと顔を背けてしまった。
そうして私を通り過ぎ、なかに入っていく。扉を閉めようと伸ばしていた手は行き場をなくしてしまった。
「ったく泉、いつまでこうしてるつもりだよー」
遅れてやってきた譲司先輩が瀧川泉の茶色い髪をかき乱す。不服そうに顔をしかめる瀧川泉が、なんだか珍しくて。余計に遠く感じた。
「よし、行くよ吉香ちゃん」
「――はい?」
行くってどこに。部室ならもう着いてますけど。譲司先輩が余裕の笑みを見せる。何だ、なんか嫌な予感。
「路上ライブ」
ろじょーらいぶ。
……路上ライブ!?
「ヤです!」
嫌すぎて声ひっくり返っちゃったよ。でもそんなこと気にしてられない。目を細めて見下ろしてくる譲司先輩に負けじと、あってないような目力で睨みつける。
だって路上ライブって。行き交う人々のなかで歌うだなんて。無理、ありえない。
校内のゲリラライブでさえ記憶どっか行くくらい緊張したのに。次は意識まで吹っ飛ぶかも。
「じゃあ今すぐ泉と仲直りしてよ」
そんな無茶な。
「あのね、うち狭いの。5人しかいないの。そのうちのふたりがこんな状況じゃ、気まずい以外の何物でもないわけ」
……痛いところを突かれた。ドラムの前に座る瀧川泉をちらりと見やると、案の定、目をそらされてしまった。
「というわけで行くよ、吉香ちゃん」
譲司先輩の声は、不思議だ。見えない壁の向こうから「こっちだよ」って手招きしているようで。いつも、よくわからない勇気をくれる。
「はい」
だから私はいつも、うなずいてしまうんだ。
「……ここで歌うんですか?」
「いいでしょ、舞台って感じで!」
まさかとは思ったけどそのまさかなんですね。やっぱり譲司先輩と私の考え方は違う。ぜんっぜん違う。
夕暮れの歩道橋。足元を行き交う車たち。ちらほらと目の前を通り過ぎるひと、ひと、ひと。なんか軽く立ちくらみしてきた。
「路上ライブって路上でするもんじゃないんですか」
「じゃあ歩道橋ライブってことで」
「そういう問題じゃなくて!」
「ハイ、吉香ちゃん」
手渡されたのはマイク。そう、マイク。……このひと一体なに考えてんだ。
「騒音で訴えられますよ!」
「騒音って思われないように歌えばいいんじゃないの」
コノヤロウ、他人事だと思って! そんなふうに歌えるならとっくの昔に歌手デビューしてるって!
「金髪にする勇気があったんだから、大勢のひとの前で歌う勇気だってあるはずだよ」
そういえば。私、何で金髪にしたんだっけ。譲司先輩の校内放送に、妙に背中を押されて変わろうと思って。変わりたくて。
でも方法なら他にもあったはず。確かに髪が手軽で確実だけど。別にブリーチじゃなくたってよかったはず。
「泉のこと想って歌えば、きっと大丈夫だから」
――あ、そっか。私。
瀧川泉に、見つけてほしかったんだ。気づいてほしかったんだ。もう一度、会いたかったんだ。受動的だったから足りないんだ。
「瀧川泉に、言われちゃいました。私の気持ちが足りなかったって」
図書室で待ってないで、探せばよかった。追いかければよかった。ちゃんと、好きって。言えばよかった。
「私がもっとちゃんと瀧川泉を見てたら、今とは違う今があったんですかね」
今さら後悔したってもう遅い。もう許してくれない。
瀧川泉は誰も愛さなかったんじゃない。誰も愛せなかったんだ。きっとレイラさんだから愛せたんだ。
私の気持ちを信じようとしてくれたのに。結局、私が裏切った。
「吉香ちゃん」
なだめるような優しい声。わかってる。今さらこんなこと考えたって何の意味もない。
だけど、涙が自然と込み上げてくるように、脳は勝手に解決策を探す。どうにもできないことをどうにかしようとする。バカみたいだ。
「吉香ちゃん。俺ね、歌い手にとって失恋ってプラスだと思うんだ」
なぐさめてるつもりだろうけど、失恋ってちょっと。いいけど別に。その通りですから。
「またひとつ感情を知るわけでしょ? ひととして少し大きくなると思う。伝えられることが増えると思う」
瞳に溜まった水分がこぼれ落ちて、いくぶん見えやすくなる。譲司先輩は、やわらかく笑っていた。
「きっと今の吉香ちゃんなら、たくさんのひとに届けられるよ」
だからその涙は無駄じゃないよ、って。言ってくれてるみたいで。余計、泣きそうになるけど。やめよう。歌おう。
譲司先輩に伴奏を頼み、マイクを握りしめる。行き交うひと、車、視線。怖い。でも、逃げない。
瀧川泉に伝えられなかった想いを、今はただ譲司先輩の音に乗せよう。
やわらかく広がるギターの音色。立ち止まるひと、振り返るひと、通り過ぎるひと。誰かに届けばいいと思った。届けたい、そう思った。
あれから1週間。毎日、譲司先輩と路上ライブに出かけている。立ち止まってくれるひとなんてほぼいないけど、それでもいいと思った。
たったひとりでも、聴いてくれるひとがいればそれでいい。
今日も今日とて部室には行かず、ひとり玄関へ向かう。そうしてギターを背負った譲司先輩が来るのを待つ、はずだったんだけど。
現れたのは、瀧川泉だった。
「あ、吉香。久しぶり」
なんてことないみたいに話しかけてくる。心臓に悪い。悪すぎる。
「お久しぶりです」
目を合わせられないから、うつむくしかない。どうかとっとと通り過ぎてくれますように。
「吉香」
願いは叶わず、近づいてきた瀧川泉が目の前で立ち止まる。ひとのまばらな玄関。私たちふたりしかここにいないような錯覚に陥る。
「ごめん」
何で謝るの? 顔を上げると、相変わらずの茶色い瞳と目が合った。なんだか切ない色をしている、ように見える。
「いろいろ勝手なこと、言った」
瀧川泉らしくない。どうして今にも消えてしまいそうな表情で、そんなことを言うの?
「吉香、俺、振られちゃった、レイラに」
――ああ。そうだ。
「軽くロミジュリ状態だし、しょうがないよね」
瀧川泉が傷つくのは決まってレイラさんだ。私じゃない。私なんかじゃない。
目の前で打ちひしがれるこのひとを救う手段はない。私には、ない。
「……吉香?」
突き動かされるようだった。瀧川泉の声を背中で聞いて走り出す。
どこにいるのかなんてわからない。でも、学校中さがせばどこかにいるだろう。見つけなきゃ、レイラさんを。
「わ、吉香ちゃん。どしたの? そんな急いで」
曲がり角を越えたところで譲司先輩に出くわした。ギターを背負った譲司先輩が、きょとんとした顔で見下ろしてくる。
「すみません譲司先輩。私、今日は行けません」
行けない。こんな気持ちじゃ歌なんて歌えない。儚い瀧川泉を思い出して、なんだか泣きそうになる。
「別にいいけど、何で?」
「――レイラさんに、会いたいんです」
会いたい。会わなきゃいけない。だって瀧川泉が。瀧川泉が。このままじゃ、瀧川泉が消えてしまう。
「レイラならたぶん生徒会室にいるんじゃない?」
譲司先輩がやわらかく笑う。いつもと同じで、いつもとは少し違う。怒ってるのかな。
「すみません譲司先輩、この埋め合わせは必ず」
「いいから行きなよ。また明日」
優しく促してくれる譲司先輩に、頭を下げることしかできなかった。そのままの勢いで生徒会室に急ぐ。
私はなんて子どもなんだろう。瀧川泉しか、見えてない。
生徒会室の前。上がった息を整えるために小さく深呼吸をする。ノックをしようとしたところでなかから冷たい声が聞こえた。
「まさかこんなことになるなんて」
生徒会長だろうか? 磨りガラスになっているのでなかが見えない。
「天下の黒ヶ峰生が制服で路上ライブ。加えてそのうちのひとりが金髪と来れば、興味本位で録画するような人間も少なくないでしょう」
……もしかして譲司先輩と私のこと? そういえば写真とか動画とか、撮ってるひともいたっけ。
「すまない。それとなく私のほうから話しておく」
今度はレイラさんの声だ。どうしてレイラさんが生徒会長に謝るの?
「まあ、削除申請もしましたし。そのうちネット上から消えるとは思いますが」
嘘。ネットに載っちゃったの!? ど、どどどうしよう。恥ずかしすぎる!
「誰だ!」
ひとり悶えていると、目の前のドアが勢いよく開け放たれた。同時にレイラさんが現れて、青い瞳で見下ろされる。
「阿部、吉香……」
「すみません! 盗み聞きするつもりなかったんですけど」
「何の用だ」
ずいっと詰め寄られると余計に萎縮してしまう。だけどさっきの瀧川泉を思い出し、このままじゃダメだと奮い立つ。
「レイラさん、ちょっといいですか」
キッと見上げた先できれいな眉がひそめられる。負けちゃダメだ。
「――すまない。少し出てくる」
レイラさんが振り向いて、奥に座る生徒会長が見えた。彼は小さくうなずくだけで無表情のままだった。
「来い」
レイラさんを追いかけて突き当たりまで歩く。立ち止まったレイラさんが振り返り、ニセモノの黒髪がさらりとなびいた。
「用件は何だ」
きれいな声がさっさと言えと急かしているようだ。ぎゅっと拳を握りしめ、レイラさんの冷たい瞳を見上げる。
「何で瀧川先輩を振ったんですか」
動揺したのがわかった。だって寄っていた眉根が離れたから。レイラさんが取り繕うように腕を組む。
「付き合う気がないからだ」
「もう、何とも思ってないんですか?」
「おまえには関係ないだろう」
腕をほどいたレイラさんが私を通り過ぎていく。ニセモノの黒い髪が、目の端に映る。
「何で隠すんですか!?」
衝動的だった。私は振り向いて、レイラさんの背中にそう叫んでいた。
「せっかくきれいな髪してるのに、隠すなんてもったいないです!」
もったいない。あんなにキラキラしてまぶしいのに。もったいない。本当はレイラさんだって、瀧川泉が好きなのに。じゃなきゃそんな曖昧な言い方しないでしょ?
レイラさんが静かに振り返る。青い瞳が射抜くように、まっすぐ私を捉えた。
「おまえは何にもわかってない」
どういう意味だろう。私は、何をわかっていない?
「何にも、わかってない」