白でも黒でもない【下】
「私、譲司先輩が好きです」
振り向いた譲司先輩に、畳みかけるように続けた。答えはわかってる。譲司先輩は、優しいから。
「ごめん、麻林ちゃん。俺――」
「知ってます。吉香のことが好きなんですよね?」
眉尻を下げ、すがりつくような視線を向けてくる。大丈夫。譲司先輩。私、こう見えて強いんですよ。
「だったら私のこと、利用したらいいじゃないですか」
そんな顔しないで。そんな、悲しそうな顔。
「優しくされたら忘れられない。だから、傷つけてください」
背伸びして、そっと譲司先輩に口づけた。触れているのか触れていないのかわからないくらい、そっと。
大丈夫。譲司先輩の痛みぐらい、私が受け止めてみせる。
「いいです!」
吉香の様子がおかしかった。ロクコンのための合宿中、突然ジョギングをしてくると言い出したのだ。
「すぐ戻ってきますから」
何となく嫌な予感がした。吉香は、譲司先輩を避けてるんじゃないの? でも、何のために。
……わからない。私にはわからないことが、吉香にはわかったのかもしれない。悔しい。
「ちょっと、長くねーかな」
吉香が出て行ってしばらく。時計を見ながらそわそわ落ち着かないのは譲司先輩だ。
心配でたまらないのか、電話するも吉香は出ない。吉香のことだ。どうせ部屋に置きっぱなしなんだろう。
「ちょっと俺、見てくるわ」
やっぱり。譲司先輩は私のことなんかちっとも見てくれてない。見る気がないんだ。吉香のことしか頭にないんだ。こんな些細なことで私が傷つくのも、きっと譲司先輩は知らない。
「俺が行きます!」
今にも駆け出そうとしていた譲司先輩を引き留めたのは、幸人くんだった。――ああ、幸人くんも。そっか。みんな、吉香なんだ。
耐えられなかった。ついさっきまで険悪ムードだった譲司先輩と吉香が、仲よさそうにしてるのが。
ロクコンのお疲れ会の途中、胸が苦しくなってひとり部屋から出た。誰かが追いかけてくるなんて、思わなかったから。
「麻林さん」
何でまた、あんたなのよ。
「どうかしたの?」
関係ないでしょ。ほっといてよ。吉香が好きなら、私になんかにかまわないで。いい加減いいひとぶるのやめなさいよ。ムカつくのよ。
「好きです」
――嘘。
「俺は、麻林さんのことが好きです」
嘘に決まってる。幸人くんはただ、私がカワイソウなだけ。誰かの譲司先輩になりたいだけ。
「吉香にでも頼まれた? 譲司先輩と別れさせるために」
「えっ……」
「だって幸人くんは、吉香のことが好きなんでしょう?」
振り向けない。苦しくて。泣きそうで。幸人くんの顔を見るのが、怖くて。
「――そっか。そんなふうに見えてるんだ」
ほんとはわかってる。幸人くんが嘘をつけないこと。こんな嘘つくはずないのも。
「ごめん、変なこと言って。忘れて」
でも苦しくて仕方がないから。吉香の気持ちに気づいてしまったから。ふたりが想い合ってるのを、まざまざと見せつけられたから。私に割り込む隙なんて、ない。
――バチン。痛かった。でも吉香の手は、あたたかかった。
「いい加減、目ぇ覚ましなよ」
どうやら聞かれていたらしい。でもそれ、完全にこっちのセリフよ。いつまでボケッとしてるつもり? 自分の気持ちぐらい、ちゃんと把握しなさいよ。
「吉香だってそうじゃない」
「――え?」
「譲司先輩の気持ちに気づきもしないで」
本当は言いたくなかった。口に出した途端、逃げ場がなくなりそうで。案の定、現実が押し寄せてきて。私は、吉香から逃げた。
「麻林さん!」
――何で、いつも。
「待ってってば!」
いつも、譲司先輩じゃないんだろう。追いかけてきた幸人くんに肩をやさしく叩かれ、しょうがないから立ち止まる。
あーあ、そんな息切らしちゃって。私もひとのこと言えないけど。あーあ。全然、止まってくれない。
昔から泣くのが嫌いだった。何かに負ける気がして。強くなきゃいけない気がして。
譲司先輩の痛みを受け止めようと思ったのに。譲司先輩は傷つけてくれなくて。むしろ優しすぎて。余計つらくて。結局、私には何もできないんだ。
「大丈夫? 麻林さん」
「ほっといて」
「……ほっとけないよ。麻林さん、苦しそうだから」
苦しいわよ。だったら何? あんたには関係ないでしょ。ほっといてよ。いい加減、苦しいのよ。
「いい加減にし――何で、幸人くんが泣くの」
振り向いた先で幸人くんが泣いていた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、私以上に。
「苦しくて。麻林さんが苦しいと、俺まで苦しい」
「……バカじゃないの」
背を向けて歩き出す。もう幸人くんは追いかけてこなかった。自分の足音だけが鼓膜に響く。
バカじゃないの。バカじゃないのバカじゃないのバカじゃないの。あんなふうに、譲司先輩に想われたかった。バカは、私だ。
「換気しなきゃ」
なんてつぶやいて部室中の窓を開けはじめる譲司先輩。夏休みが終わる少し前、譲司先輩を部室に呼び出した。終わりにしたくて。
「麻林ちゃん、暑くない?」
「大丈夫です」
「なんか飲みもん買ってこようか?」
「譲司先輩」
もう大丈夫です、譲司先輩。優しくしてくれなくていいです。もうすぐ、放してあげますから。
「何で、吉香だったんですか?」
視線を落としてしまう譲司先輩。きっと怖いんだろう。誰かを傷つけるのが。譲司先輩は、優しすぎるから。
『俺、本当は気づいてたんだ。麻林ちゃんが西中の子だって』
『じゃあ何で、気づかないふり――』
『怖くて。傷つけたく、なくて』
合宿中、譲司先輩とそんな話をした。傷つけるのが嫌で、誰かに呼び出されても無視してばかりだったって。譲司先輩は、ずるい。
「吉香は、譲司先輩の気持ちに気づいてないんですよ? 眼中にないんですよ。傷つくのわかってるのに、何で」
「たぶん、麻林ちゃんと同じ」
いつの間にか譲司先輩は顔を上げて、まっすぐ私を見ていた。私のことなんかどうでもいいくせに、まっすぐ。
「傷つくってわかってるけど、簡単にやめられない。好きでいるの、やめられない」
いっそメチャクチャにしてほしかった。最低だって思わせてほしかった。――ずるいよ。
「そうですか。わかりました」
うまく笑えているだろうか。あと少し我慢できるだろうか。
「もう充分、傷つきました。ありがとうございました」
頭を下げると同時に、ぽたり。私はいつからこんなに涙もろくなったんだろう。
お願い、譲司先輩。どうか気づかないで。強くいさせて。
すぐ家に帰る気にはなれなかった。何も考えずにただひたすら街を歩く。
私は人間だから、ちゃんとお腹もすく。無駄に歩き回れば当たり前に疲れる。生きている。なのに、心だけ虚しくて。
お腹がすいたら何か食べればいい。疲れたのならどこかで休めばいい。なら心は、どうすれば満たされる? 雑踏のなか、ひとり動けなくなる。
私はいったい何だったんだろう。譲司先輩にとって、何だったんだろう。誰も傷つけたくないと願う譲司先輩に、傷つけてほしいなんて言って。重荷でしか、なかったんだろうな。
「あれ黒ヶ峰の制服じゃない?」
「うっわ金髪じゃん!」
「ま、超進学校だしストレスたまるんじゃない?」
「夏休みにストレス発散?」
「ウチら気楽でよかったー!」
――金髪。ショーウインドーをちらりと見れば、瞳に涙を溜めた金髪の私と目が合った。ああ、私。ぜんっぜん似合ってない。
吉香みたいになりたかった。吉香みたいに、譲司先輩に必要とされたかった。譲司先輩を傷つけてみたかった。
なんてバカなんだろう。私は私でしかないのに。
吉香にはずっと金髪でいてほしかった。金髪であってこそ吉香だと思っていたから。でもそんなの、きっとただのワガママで。変わろうとする吉香を私に止める権利はない。
「譲司先輩、元気そうでよかったね」
停学処分中の譲司先輩に会いに行った帰り道、幸人くんが元気のない声で言う。
「そうね」
「――吉香さんのこと、言えなかったけど」
幸人くんはどこまで行っても幸人くんなんだな、と思う。出会ったときからそう。幸人くんは“白”でも“黒”でもない。
……いや、ちょっと違うな。“白”でもあり、“黒”でもあるのかもしれない。
「幸人くん」
「ん?」
「今でも、私のこと好き?」
ほんとは初めからわかってた。すぐ真っ赤になる、わかりやすいところも。ひとのことばっかり考えてるところも。優しすぎてひとを嫌いになれないところも。
全部がまぶしくて。全部、愛おしくて。
「――ごめん。迷惑だよね」
立ち止まってしまった幸人くんを振り返る。伏せられたまつげが小さく震えていて、どうしようもなく胸が締めつけられる。
「聞いてもいい? 何で、私だったの」
教えてほしい。幸人くんのこと。幸人くんのなかにいる私のこと。そしたら少しは、自分を好きになれる気がするから。
「やっぱり麻林さん、忘れちゃってたんだね……。西中に入学して少ししたときに俺、殴られちゃって」
幸人くんの言葉におぼろげな記憶を辿る。そんなこともあったんだっけ。つらかっただろうな。
「けっこう痛くて。血ぃ出てきちゃって。みんな見て見ぬふりで」
ふんわりと嬉しそうに微笑む幸人くん。ひだまりみたいだ。幸人くんは、あたたかい。
「でも麻林さんが、絆創膏くれたんだ」
――私だったのかもしれない。譲司先輩になろうとしてたのは。誰かを、救いたかったのは。
「俺、すんげー嬉しくて。つらかったけど、麻林さんのおかげで頑張れた」
本当は、私だったんだ。
「えっ、ななな何!?」
「好き」
言いたくなった。もう収まらなかった。心のなかが幸人くんでいっぱいになってあふれてくる。
「幸人くんが好き」
抱きついたままもう一度こぼすと、幸人くんが小さく笑ってくれた気がした。
「俺も、麻林さんのことが好きです」
そっと背中に回された腕もあたたかい。幸人くんは太陽だ。白黒の世界を照らして、新しい色をくれる。たくさんの色を教えてくれる。
幸人くんのなかでこぼした涙は、ひだまりのようにあたたかかった。