「変わらなきゃ」【下】
「ボーカルは金髪だって前に言いましたよね? だからもう、私はいりませんよね」
力が抜けたみたいに、ストンと腰を下ろす譲司先輩。目は虚ろで、軽音楽部が廃部になりそうだったときによく似ていた。
でもここで引いちゃいけない。今じゃなきゃ、きっと言えないから。
「レイラさんはもともと金髪だし、歌だってうまいし、ピアノも弾けます。でも私の金髪は所詮ニセモノだし、歌だって大してうまくもないし、楽器も弾けません」
「何で」
「――だから」
「何で、レイラと同じこと言うの?」
悲しそうな目だった。すがりつくような、目だった。
そんなふうに見つめないでほしい。私だってこんなこと言いたくなかったけど。本当のことでしょ? 金髪だから私だったんでしょ?
「短い間でしたけど、お世話になりました」
できるだけ深く頭を下げた。譲司先輩の顔を見たくないから。目、合わせられそうにないから。
そのまま背を向ける。きっとここにはもう来れない。向かい合って座る譲司先輩の、笑顔を思い出してしまいそうだから。思い出が増えれば増えるだけ、近づけない場所が増えていく。
「好きなんだよ!」
大きな声だった。立ち止まらざるを得ないような。たくさんの視線が突き刺さる。そのなかでも、譲司先輩の視線は強い。
「吉香ちゃんの声、好きなんだよ」
祈るように、ささやくように。譲司先輩の声は少しだけ、かすれていた。
大丈夫。譲司先輩、大丈夫だよ。レイラさんの声だって好きだったはずでしょ? 私がいてもいなくても、譲司先輩は輝いてるから。輝けるから。
そのまま振り向かずに店を出た。たくさんの視線に気づかないふりをして。逃げた。
私は“まじめだけが取り柄の阿部さん”に戻ることにした。休みの日は図書館で勉強、暇さえあれば勉強、誰も寄せ付けない私に。
居心地がいい。勉強は逃げないし、簡単に手放せる。……ただ少し、張り合いがないだけ。
休みも明けて、今日は生徒会の総選挙だ。譲司先輩の謹慎も解けるし、軽音楽部の活動も再開する。
にしても譲司先輩、何にも選挙活動してないから相当不利だよなぁ。まあ譲司先輩のことだから、何かしら打開策なり用意してあるんだろうけど。
――って、違う違う。心配してどうするよ。もう関係ないんだから、私は。
ひとり寂しくお弁当を食べながら窓の向こうを見る。ちらほら雲も浮かんでるけど、きれいな青空。きれいすぎて少し泣きたくなる。
今日は麻林もユキくんも、話しかけてこなかった。……正確には1回ユキくんが近づいてきてたけど、麻林に引き留められていた。
これでいいはずなのに。このまま少しずつ、離れていけばいいのに。
「阿部さーん」
クラスの男子が呼んでるみたいだ。そちらを見れば、まぶしい金髪が風に吹かれていた。
「何の用ですか?」
突き当たりで向き合っても目を伏せるばかりだから、自分から切り出した。少し冷たくなってしまった気がするけど、気のせいだと思いたい。
レイラさんが顔を上げてようやく目が合う。今日の空のような、きれいな瞳と。
「副会長の任期が満了したら、もう一度、軽音楽部に入ろうと思ってる」
「そうですか。いいんじゃないですか? 別に、わざわざ私に報告しなくても」
「戻ってきてほしいんだ」
――戻る? なに言ってるんですか、私は戻ったんですよ。元の私に。それに、その言葉を口にしていいのは、いま軽音楽部にいるひとだけで。間違ってもレイラさんじゃない。
「もうレイラさんのところまで広まってるんですね。瀧川先輩と仲がいいみたいで何よりです」
「私は、吉香に感謝している。吉香のおかげで本当の自分を取り戻せたんだ」
ならそれでいいじゃないですか。私の役目もうないでしょ?
「だから、戻ってきてくれないか」
「――すみません。もう決めたことなんで」
今さら戻れない。ボーカルはひとりで充分だし。それがレイラさんなら万々歳だし。私の居場所は、ないし。
「私の言葉じゃ、届かないか」
背を向けて歩き出したところでそんな小さな声が聞こえた。独り言のようだ。
動けなくなる。前に、踏み出せなくなる。
――タン、タン。レイラさんが階段を下りていく音が聞こえる。そんな音でさえもきれいで、胸が痛い。
結局のところ私はレイラさんが羨ましくて羨ましくて仕方ないんだ。風になびくまばゆい金髪も、海の色にも空の色にも見える青い瞳も、包み込まれるような透き通った歌声も、慣れた手つきで奏でるピアノの音色も。
全部、私にないものばかりで。手の届かないものばかりで。
――ヴー、ヴー。これから生徒会総選挙ということで、それぞれ体育館に移動していたときだった。ポケットに入れておいた携帯が震えたのは。文化祭の一件から携帯を持ち歩くようにしてるけど、メールはあんまり得意じゃない。
ユキくんや麻林とは連まずひとりだったから、ひとの波から外れるのはたやすかった。少し寂しくもあるけど。
メールはお姉ちゃんからみたいだ。珍しいな。何かあったのかな。
『髪、戻したんだって?
もったいないなぁ。
似合ってたのに!』
たった3行の短いメール。でもそれだけじゃなかった。写真がついてる。
どこの国かはわからない。朝日なのか夕日なのかもわからない。ただ、壮大な草原の向こうから太陽が覗いてて。
たくさんの色があって。光があふれてて。頑張れって、お姉ちゃんが言ってくれてる気がして。背中を押してくれてる気がして。
『いいじゃん金髪! 似合ってるよー!』
『今の吉香、すっごい輝いてるよ』
思い返してみれば、いつもお姉ちゃんは私を励ましてくれてた。それなのに私は羨むばかりで。
お姉ちゃんを、レイラさんを、瀧川先輩を、ユキくんを、麻林を、譲司先輩を。自分から遠ざけてるんだ。
『只今より生徒会総選挙を執り行います。会場外に残っている者は直ちに――』
その放送で我に返った。行かなきゃ。私はまじめだけが取り柄の阿部さん。サボるなんてもってのほか。廊下を走るのは今だけ見逃してほしいけど。乱れた息を整え、そっと体育館の扉を押し開ける。
振り向いた先生たちにペコペコと頭を下げながら1年1組の最後尾に並ぶ。もう演説は始まってるようで、マイクの前には生徒会長が立っていた。
もっともらしいことを言っているんだろうけど、あんまり耳に入ってこなかった。候補者のなかに、譲司先輩を見つけたから。
いつもはつけないネクタイをしっかりと締め上げ、まじめに制服を着こなしている。推薦人はレイラさんに頼んだらしい。正しい選択だと思う。
――パチパチパチ。生徒会長の演説が終わったらしい。あわてて周りに合わせ拍手をする。次は譲司先輩だ。
名前を呼ばれ、立ち上がる譲司先輩。……あれ? ギター?
「生徒会長に立候補しました。2年7組、篠之宮譲司です。正直、俺は話すことなんてありません」
――はい?
「でも、聴いてほしいです」
なんて言ってギターを肩にかける。そうして音合わせするみたいに軽く鳴らす。譲司先輩の音、だ。
「前、あるひとに聞かれました。俺にとって軽音楽部は、バンドは、ギターは、飽きたら簡単に捨ててしまえるおもちゃなのかって」
目を伏せて話しはじめる。あのとき――譲司先輩と理事長の約束を知ったとき、私は責めることしかできなかった。子どもみたいに責めることしか。
「違うと思ったのに、うまく言葉が出てこなかった」
自嘲気味に笑ってみせる。譲司先輩は大人だから、私の怒りをぜんぶ受け止めて。痛かっただろうな。嫌だっただろうな。
「でも、今ならはっきり言える。俺にとって軽音楽部は、バンドは、ギターは、かけがえのない大切なものだって」
顔を上げた譲司先輩が笑う。風でも吹いているような、清々しい表情。
「捨てらんないって」
――ずっと。その言葉が聞きたかった。譲司先輩の口から、その言葉が。
「あれ、話さないつもりだったのになー。まあいいや、聴いてください。東中の校歌」
壇上にいる譲司先輩と目が合う。何で。私いま、金髪じゃないのに。譲司先輩は、西中なのに。何で。
そんなに優しい顔で、私を見るの?
苦しくなって目を伏せた。ぐるぐるする、いろんなことが。頭のなかで。心のなかで。
本当にいいの? このままで。変わりたかったんじゃないの? たとえ誰にも必要とされてなくったって、私がみんなを必要としてるのに。そばにいたい、そう思ってるのに。
いつまで逃げるつもり? いつまで、自分を殺すつもり? 楽しかったじゃない。嬉しかったじゃない。歌うことで、共有したいと思えたじゃない。
手放すのが怖いなら、しっかり握ってればいい。
譲司先輩がイントロのまま待ってくれてる。――私も一歩、踏み出さなきゃ。
「変わらなきゃ」
金髪でも黒髪でも、私は私なんだから。
一歩一歩、少しずつ前に進む。たくさんのひとが不思議そうな視線を向けてくるけど、今はただ前だけ見ていようと思った。
ユキくんや麻林も通り過ぎて、舞台の前。譲司先輩が嬉しそうに笑ってくれたから、安心して階段を駆け上がった。マイクの前に立ち館内を見渡す。黒ヶ峰の全校生徒、それから先生たち。たくさんの目が私たちに向けられている。
敵じゃない。みんな、私たちと同じひとりの人間なんだ。何か大切なものがあったり、何かに怯えてたり、何かに憧れてたり。
「吉香ちゃんのタイミングでいいよ」
誰かの優しさに救われたり。誰かの秘密に傷ついたり。誰かを、心から愛おしいと思ったり。恐れる必要なんてない。
歌おう。大切な何かを共有するために。ひとりじゃない、そう伝えるために。少しでも自分を愛せるように。
心を込めて、歌おう。
「信じてたわよ」
あのあと先生方に生徒指導室に連行され、ふたり揃ってご説教を受けた。サプライズにしてはやりすぎだの、候補者と推薦人以外は舞台に上がるべきじゃないだの。隣で怒られている譲司先輩は、少しだけ嬉しそうだった。
もう放課後になっていたので荷物を取りに戻ったら、待っていてくれたらしい麻林にそう言われたのだ。隣にいるユキくんも嬉しそうに笑っている。
――あ、私。幸せかも。
「実は、瀧川先輩に頼まれてたの。選挙が終わるまで吉香に話しかけないでって」
「え、何で?」
「吉香を連れ戻すのは譲司先輩の役目だって」
それってつまりアレですか、私しっかりハメられたってことですか。ちくしょう。瀧川先輩め!
「よかったぁ、吉香さん戻ってきてくれて!」
……まあ、いっか。こんなふうにユキくんが喜んでくれるんだったら。
「あ、譲司先輩!」
ユキくんが私の向こうを見て嬉しそうに手を挙げる。振り返ると、走ってきたらしい譲司先輩がドアのそばに立っていた。髪の毛、ぼさぼさだし。ネクタイ、ゆるゆるだし。
「先に行ってるから」
気を遣ってくれたらしい麻林がユキくんを引っ張って教室から出ていく。ふたりきりになってしまった。譲司先輩が照れくさそうに笑う。
「結果、一緒に見に行かない?」
「もう決まってるんですか?」
「らしいよ。玄関の掲示板に貼ってあるんだって」
だから早く行こう、そう言いたげな譲司先輩に笑みがこぼれる。適当に帰り支度を済ませ、譲司先輩とともに階段を下りた。
「遅かったですね」
掲示板の前には、なぜか生徒会長の姿があった。壁にもたれたりしないあたり本当にまじめだなぁと思う。
「葛目……何だよ、待ち伏せか?」
「まあ、そんなところです」
目を伏せてふっと微笑む。やわらかい表情。相手は、譲司先輩なのに。
「篠之宮くんらしい演説でしたよ」
「何だよそれ」
「なぜでしょうね。勝ったのに勝った気がしないのは」
生徒会長の言う通りだった。譲司先輩は次の生徒会長になれなかった。まあ、当然の結果だと思う。ここは超進学校の黒ヶ峰学園で、生徒会長は見るからにまじめ一直線で、譲司先輩はその対極にいるんだから。
「まだ、終わってないからじゃね?」
両手をポケットに突っ込みながら、生徒会長の隣に並ぶ譲司先輩。生徒会長が不思議そうな顔で譲司先輩を見やる。
「次のテストは、負けねーからな」
思わず笑ってしまったのは私だけじゃなかった。生徒会長が嬉しそうに微笑む。
――ああ、何だ。こんなにも簡単にひとは。小さなきっかけひとつで簡単に。近づけるんだ。
「阿部さん」
生徒会長が譲司先輩を通り過ぎて私のもとにやってくる。やわらかい表情。鎧は、音を立てて崩れたらしい。
「これからも、輝いていてください」
それだけ言って去っていく。輝いて、いて? 私、輝いてたんだろうか。輝けてるんだろうか。
「あいつ――もしかして吉香ちゃんに気があるんじゃ!?」
「いや、ないです。絶対」
「えー……って、葛目とかどうでもいいんだよ! 吉香ちゃん!」
何ですかその無駄な勢い。そう思ったのもつかの間、向かい合わせになった譲司先輩はふっとうつむいてしまう。
「どこから話そう……えーっと、初めから?」
いや、から? って聞かれても。ていうか何の話ですか。
「初めて吉香ちゃん見たの、自分の教室からだったんだ。校門から入ってくる金髪の吉香ちゃん見つけて、制服の感じから1年かなって」
そうだったんだ。あのとき、たくさんの視線に負けそうだった。そのなかに譲司先輩もいたんだ。
「それで放課後、片っ端から1年の教室あけてって。最後に、吉香ちゃんを見つけた」
初めて譲司先輩に会ったときは、正直やばいひとだと思った。だって髪まっ赤だし、ピアスつけてるし、ネクタイつけてないし。でも校内放送と同じ声だって気づいてからは、不思議と不安は消えていった。
「吉香ちゃんと一緒にいると楽しいんだ。怒ってくれるのも、すっげー嬉しい」
胸が締めつけられる。譲司先輩のまじめな顔が、しっかりと私に向けられているから。大切な言葉を、伝えようとしてくれているから。
「だから、その、つまり……」
「好きですよ」
言いたくなった。私の口で。私の声で。目の前にいる、愛おしいひとに。
「私、譲司先輩が好きです」
今なら言える。はっきり言える。ごまかしてきた本当の気持ちを。自信がなくて、言葉にできなかった大切な想いを。
驚いていた譲司先輩が、ふっと顔を綻ばせる。ああ今、どうしようもなく。幸せだ。
「先、越されちった」
こんなふうに照れくさそうに笑う譲司先輩も、舞台の上で堂々としてる譲司先輩も、全部。そう、全部が愛おしい。
『心の底から好きだって思えるひとに出会えたら、そのひとが居場所になるよ』
瀧川先輩の言葉の意味が今やっとわかった。譲司先輩が、私の心の居場所なんだ。私もなれているだろうか。譲司先輩の、心の居場所に。
「何いちゃついてんの、さっさと練習はじめるよ」
……噂をすれば瀧川先輩。振り返ると、軽音楽部のみんなが揃っていた。瀧川先輩に、ユキくんに、麻林に、レイラさん。キラキラ輝いている、近づきたいひとたち。近づけるだろうか。手を伸ばしていいのだろうか。
「もう一度、入部させてくれませんか?」
みんなから笑顔が返ってくる。胸がいっぱいで泣きそうになるけど、やめよう。笑おう。
「当たり前だろう?」
大切なひとたちのそばで、笑おう。
世界はいろんな色であふれている。空の青、草木の緑、日差しの白、すべてに命があって、すべてが輝いている。
私もそのなかのひとつでありたい。決して目立たなくても、小さな光でも。輝きつづけることに意味があると思うから。