“自分”を愛せ!
誰かを心から愛せるなら
誰かの幸せを願えるなら
きっと“自分”だって同じはず。
同じように愛せるはず。
だから――。
◆“自分”を愛せ!◆
あの歌はレイラさんの歌なんだと思っていた。譲司先輩の、行き場のない想いをぶつけた歌なんだと。
『あの歌……譲司先輩が作った歌。吉香の歌なの。譲司先輩が、吉香を想って作ったのよ』
麻林の泣き顔を思い出す。こらえきれなかった涙が、麻林の頬を濡らして。ぽろぽろ、ぽろぽろこぼれ落ちて。
何も言えなかった。どうすればいいのかわからなかった。走り去る麻林を追いかけるなんてこと、できるはずもなかった。
そして、今日。夏休みが明けて始業式。久しぶりに黒ヶ峰学園へ向かう。
すぐ実力テストがあるから、しばらく部活はなかった。でもそれが終わればまた部活が始まってしまう。そしたらまた譲司先輩に会わなきゃいけない。
『吉香。今日はもう帰っていいよ』
ユキくんが麻林を追いかけて、ひとり残された私は動けなくなった。そのとき察したらしい瀧川先輩がそう言ってくれたのだ。あれからずっと、譲司先輩には会っていない。
「はぁ……」
無意識に落ちたため息も、足も心も重い。どんな顔で譲司先輩に会えばいいんだろう。麻林に合わせる顔だって持ち合わせてないのに。
校門の前まで来たものの、見えないバリアが張られてるみたいで。一歩も踏み出せない。
「よーしか」
私の心情とは正反対のゆるい声。たぶん瀧川先輩だ、このノリ。……譲司先輩もいたらどうしよう。
「譲司ならいないよ」
わおバレバレ。振り向いたら薄く笑う瀧川先輩がいた。絶対このひと面白がってる。
「おはようございます譲司先輩のことなんか聞いてないんですけど別に」
「背中に書いてあった」
「気のせいじゃないですか?」
「じゃあ何ですぐ振り向かなかったの」
「そういう気分だったんで」
流れで瀧川先輩と校門を抜ける。久しぶりの学校。久しぶりに向けられる、冷たい視線。
何にも変わってない。居心地が悪くて、居心地がいい。学校って不思議だ。
「よく気づかなかったよね。譲司、わかりやすいのに」
うっ……朝からその話ですか。
「瀧川先輩は気づいてたんですか?」
「まーね」
「気づいてて――その、私と」
「うん、付き合う前から気づいてた」
そんなあっけらかんと。普通そういうときって遠慮したりするんじゃないのかな。
「遠慮するのは譲司に失礼だって気づいたからね」
顔に出てしまった。聞かずとも答えてくれる瀧川先輩。レイラさんのことかな。
そうだよ。譲司先輩はレイラさんが好きだったんだ。なのに、何で。
「何で私なんですかね。ていうか、ほんとに私なんですかね」
「譲司の気持ち、嬉しくないの?」
「そういうわけじゃないんですけど。もっと、ふさわしいひとがいるのに」
麻林とか。……麻林とか。麻林しかいないんだけど。
「そんな簡単なもんじゃないでしょ。好きって」
――そうだ。好きになろうとして好きになれるわけじゃない。やめようとして簡単にやめられるわけでもない。
でも。だけど。譲司先輩に好意を持たれるようなことは、した覚えがない。むしろずいぶん生意気なことを言ってきたと思う。何で、私だったんだろう。
「じゃーね吉香、テスト頑張って」
「瀧川先輩も」
「ん」
靴を履き替え、軽く手をあげ去っていく。玄関でひとり、小さくなる後ろ姿を見つめる。
あのときは――別れたときは、こんなふうに話せる日が来るなんて思わなかった。何にもなかったみたいに、普通に、笑い合えるなんて。
“好き”という気持ちは、気づいたら心のなかにあった。なくなるときも同じで、気づいたらなかった。ただ、心の奥に小さなカサブタが残って。時々うずくんだろうな。
「吉香さーん!」
明るい声が飛んでくる。絶対ユキくんだ。振り向いたら案の定、ユキくんが駆け込んできた。満面の笑みで。
「久しぶり!」
つられて笑顔になるけど、ダメだ。いろいろ謝らなきゃいけないことがある。
「宿題終わった? 俺なんか今日徹夜でさー。でもまだ数学が終わんなくて!」
「あの、ユキくん」
「あ、別に見せてって意味じゃ」
「ごめんね」
まさにキョトン。大きな目をぱちくりさせて食い入るように見つめてくる。
「何が?」
「えっと、ロクコンの日、殴っちゃって。大事な話に割り込んで」
つくづく申し訳ない。あの日の私はきっとどうかしてたんだ。慣れないメイクをして、違う人間になったような気がして。じゃなきゃユキくんを――麻林を、ひっぱたく勇気なんてない。
「何で謝るの? 俺、吉香さんに感謝してるのに」
感謝? ……なぜに?
「吉香さんのおかげで言えたんだから。自分の気持ち」
そう言ってユキくんはスッキリした顔で笑った。何も悔いはない、そう顔に書いてある。
「まあ、振られちゃったんだけどね」
え。聞き返す間もなくユキくんが通り過ぎていく。
当たり前といえば、当たり前のこと。麻林が好きなのは譲司先輩だから。でも、ユキくんは悲しくないの? 何で笑えるの?
「ユキくん」
「わかってたんだけどさ」
あわてて追いかけたけど、隣に並ぶことはできなかった。ユキくんの声が少しだけ震えていたから。
「けっこう、つらいね」
ユキくんの目元が、キラキラ輝いていたから。
ひとりにしてほしいのか、ユキくんが歩くスピードを速める。追いかけない。追いついちゃ、いけない。
やっぱり私には何にもできないんだなぁ。悔しい。こういうとき、譲司先輩ならどうするんだろう。どうやってユキくんの痛みを和らげるんだろう。
教室に入ってもユキくんの姿は見当たらなかった。私より先に行ったのに。きっと今、ひとりで闘ってるんだ。
「ふう……」
机に倒れ込み、片目で空を見上げる。終わりに近づく夏の、きれいな青色。ゆるやかな雲の流れを見つめていると、不意に誰かが窓に映り込んだ。
「吉香」
麻林の声だ。久しぶりの、アレ以来の麻林だ。
麻林だって気まずいはずなのに、私を無視しない。ちゃんと、声をかけてくれた。
私も返さなきゃ。起き上がって、振り向いて、ちゃんと麻林を見なきゃ。
「――は?」
振り向いたとき、そこにいたのは麻林ではなかった。私が知っている麻林、では。
肩まで伸びたやわらかい髪は黒く染まっていた。譲司先輩のために、金髪にしたのに。
傍目から見れば元に戻っただけ。でも目には見えない何かが、確かに変わってしまった。ひたむきに譲司先輩だけを見つめていた麻林は、もうここにはいない。
「私たち、よく似てるわね」
やわらかく目を細める麻林から目が離せない。こんなに優しい、切ない顔は見たことがない。
「憧れは、憧れのままだった」
――憧れ。私が瀧川先輩を追いかけてここに来たように、麻林も譲司先輩を追いかけてここに来たんだろう。
近づくチャンスがなくて歯がゆい思いをしていたときに、私が現れた。羨ましいに決まってる。私だってレイラさんが羨ましくて仕方なかった。
だから、苦しくなって。私から先に手を離したんだ。
「吉香に言った途端、急に実感わいて」
苦しい。あのとき、私が余計なことをしなければ。麻林は言わなくて済んだのに。
「だからもう、私に遠慮しないで」
遠慮してるわけじゃない。ただ譲司先輩を好きじゃないだけで。だから、そんなこと言わないで。自分を傷つけるようなこと、わざわざ言わないで。
たくさんの言葉が喉の奥に消えてゆく。今はどんな言葉をもってしても、麻林の心は救えない。救えっこない。
「え……麻林さん?」
どうやらユキくんが来たみたいだ。麻林の向こうを見ると、固まってしまったユキくんがいた。
「久しぶり、幸人くん」
やわらかく微笑む麻林の横顔が、さっきのユキくんに重なっていく。ふたりとも乗り越えようとしている。切なさを。痛みを。
私は、譲司先輩とは違う。だから簡単に誰かの心をすくい上げることはできない。
ふたりの横顔を、前を向こうとする瞳を、ただそばで見ていることしか。なんて不甲斐ない。なんて役立たず。
でも許されるなら、ずっと見ていたい。ふたりの横顔が、もっと違う形でキラキラ輝くのを。見届けたい。
「吉香、ドンマイ。次があるわよ」
「……別にテストの出来が悪くて落ち込んでるわけじゃ」
「そう解釈するってことは本当に悪かったのね」
テスト終了後、難しい問題のオンパレードでぐったり机に倒れ込んでいたら、もう帰り支度を終えた麻林が声をかけてきた。あなた落ち込んでたんじゃないんですか。
「早く行くわよ。先輩たちが来る前に鍵あけとかなきゃ」
先輩――譲司先輩もいるんだよね、当たり前だけど。もう。どんな顔で会えばいいんだよお。
頭を抱えたところで時間は待ってくれない。ふたりに流されるまま部室に向かうと、瀧川先輩が壁に寄りかかっているのが見えた。よかった、譲司先輩いなくて。
「お久しぶりです、瀧川先輩!」
「久しぶりー。テストどうだった?」
「あーダメです全然」
「俺も惨敗」
ユキくんと瀧川先輩が話している間に、麻林が慣れた手つきで鍵を開ける。このままなかに入ってしまえば何とかなりそうだ。
「あ、そういえば譲司先輩は?」
そう思ったのに。何の気なしにユキくんが言うから、心臓が妙な音を立てる。意識してどうすんのよ。普通でいようよ私。
「さあ? 特進だから遅いんじゃない」
……そうだよ。特進クラスだし。理事長の息子だし。西の譲司だし。私なんかとは釣り合わないし。麻林の勘違いかもしれないし。
意識するだけ無駄だ。私は、譲司先輩のこと好きじゃないんだから。
「ちょっと、遅すぎませんか?」
放課後になって小一時間が経った頃、そう言ったのはユキくんだった。確かに。今日はもう来ないつもりなのかな。
「電話してみる」
瀧川先輩が携帯を取り出したときだった。重く、静かにドアが開いて、譲司先輩が現れたのは。
でも、いつもの譲司先輩じゃない。目は虚ろで宙を見つめるばかり。手は、そのままストンと下ろしている。
「譲司?」
「ごめん……俺のせいで」
小さな声だった。聞いたことのない、弱々しい声だった。
「ここ、なくなるかもしんない」
なくなるって。ここが? 何で? 何でそんな、今にも消えそうな顔するの。
「譲司、どういうこと?」
立ち上がった瀧川先輩が優しく問いかける。譲司先輩は一度小さく下唇を噛みしめ、そうしてまた口を開いた。
「ロクコンで、優勝できなかったから。その程度の実力なら必要ないって」
誰が言ったのかわかった。譲司先輩が遅くなった理由も。どこで何をしていたのかも、全部。
『譲司は、あれで必死なんだよ。大切なもの守るために』
あのときの、瀧川先輩の言葉の意味も。わからなかったんじゃない。私は、譲司先輩をわかろうとしてなかったんだ。
「――吉香ちゃん?」
目の前に立つと弱々しく顔を上げる。久しぶりに合った視線が、SOSを出しているような気がした。
譲司先輩だっていつもヒーローってわけじゃない。助けてほしいときだってあるんだ。今がそのときなら、私は。
「どいてください」
固まったままの譲司先輩をなんとか通り過ぎて、ひとり廊下をひた走る。
譲司先輩が守ろうとしているものは、私にとっても大切なものだから。私にだって守らせてほしい。
――コンコン。ノックした手が震えていた。落ち着け。相手は理事長だ。ちゃんと、落ち着いて話さなきゃ。
「どうぞ」
「失礼します」
恐る恐るドアを開けると、机に向かって何やら作業している理事長が見えた。パタン、ドアが閉まると同時に理事長が顔を上げる。譲司先輩と同じ真っ黒い瞳が、まっすぐ私を捉えている。
「君は……軽音楽部の」
「1年1組、阿部吉香です」
「用件を聞こう」
「撤回してください」
ピクリ、理事長の眉が歪む。かと思えばごまかすように、やわらかく笑ってみせる。
「撤回――何のことかな?」
「確かに、優勝はできませんでした。でも、だからって存在してちゃいけないんですか?」
ふ、そらされた視線が肯定していた。悔しくて堅くなる両手。
「黒ヶ峰学園には、一番しか必要ないんですか?」
目を閉じて重いため息をこぼす理事長。何で自分の息子なのにわかってあげないの。わかろうとしないの。
「あのとき譲司先輩が望んでいたのは、処罰を与えないことでも、事件をもみ消すことでもありません。ちゃんと、怒ってほしかったんです」
ただ譲司先輩は、あなたの期待に応えたかっただけなのに。あなたに、振り向いてほしかっただけなのに。
顔を上げた理事長が、よくわからないといった様子で私を見てくる。
「今やりたい放題やってるのも怒ってほしいからで、職権乱用して圧力かけてほしいとか、そういうことじゃないんです」
きっと私じゃダメなんだ。
「理事長と生徒としてじゃなく、父親と息子として、向き合ってほしいだけなんです」
きっと、お父さんじゃなきゃ意味がないんだ。
「お願いします。せめて、文化祭が終わってからにしてくれませんか」
私が怒ったところで譲司先輩の心は満たされない。だったら、せめて。譲司先輩と同じように頭を下げよう。
やっと見つけた居場所を、輝きを。私だって手放したくないから。
「――そうだな。一度くらい、見てからじゃないと」
バッと顔を上げると、やわらかく笑う理事長がいた。ああ、やっぱり。譲司先輩に似てる。
「ありがとうございます!」
譲司先輩も、きっといつかこんなふうに笑うんだろう。
「吉香ちゃん」
「うわっ!」
理事長室を出て、突き当たりまで行ったら急に声をかけられた。……譲司先輩。いつからいたんですか。
「ありがとう」
一通り聞かれてたみたいですね。あまりのばつの悪さに顔が引きつる。くそう。
「瀧川先輩の受け売りです」
「なるほど。どうりで詳しいと思った」
譲司先輩を通り過ぎてそそくさと階段を下りはじめる。軽やかな足取りで追いかけてくる譲司先輩。余裕復活ってか。まあこれで少しは借り、返せたよね。
「吉香ちゃん。文化祭のライブ、ぜーったい成功させようね」
そう言って笑う譲司先輩が、キラキラ輝いてて。また少し心臓が変な音を立てて。でも気づかないふりをして、譲司先輩に笑顔を返した。