Uber Eatsの配達員が料理を投げ捨てて立ち去ったとして、ジャーナリストのJunya ISHINO/石野純也(@june_ya)さんが告発した事件が話題だ。Uber Eatsの運営は石野さんに謝罪したが、炎上はまだ終息する気配を見せていない。
Uber Eatsの配達員たちはあろうことか徒党を組み、石野さんが投稿した写真の「不自然さ」を指摘する、写真の捏造や自作自演を疑う、言うに事欠いて陰謀論を唱えるなど、罵詈雑言や誹謗中傷を投げかけているのである。
こうした一部の配達員たちの狼藉により、Uber Eatsのイメージは下がり続けている。不満の声を上げれば、怒れる配達員たちに報復されるかもしれない。注文者は住所や電話番号を握られており、顔を見られているという弱みもある。配達員の中には自らを「元プロボクサー」と誇示しながら威圧する者まで現れた。
この有り様では女性や子どものいる家庭から安心して注文できるとは言えない。Uber Eatsの運営はチンピラまがいの配達員を早急に永久追放すべきだ。配達員は大部分はまともであるとの反論も出ているが、ギグ・エコノミーで生計を立てるしかない者たちを果たしてまともと呼べるのか、多くの人が疑問に感じているはずだ。
配達員たちは興味深い動機付けを与えられている。シェアリングエコノミーの担い手たる「個人事業主」として、彼らは飲食店で働くアルバイト店員に優越感を覚えるという。米Forbes誌は『ギグ・エコノミーは「搾取経済」を体よく言い換えたもの』と評したが、これこそがギグ・エコノミー企業の時価総額を押し上げ、ソフトバンク・ビジョン・ファンドが出資に値すると判断した理由なのだ。
この手の職業に就く底辺層は、例えるなら深海をうごめく異形の生物のようなものだ。太古の昔から存在はしていたが、船上でパーティを楽しむ人々が意識する必要はなかった。だがインターネットの民主化により、誰もがスマートフォンやTwitterなどの強力すぎるツールを手にした結果、残念ながら可視化されてしまった。
その醜い姿や口汚い言動にばかり気を取られてはいけない。真に目を向けるべきは、「注文する者」と「配達する者」の間に横たわる絶望的な格差である。配達員たちが汗を流して自転車を漕ぐ間、注文者たちはカメラの録画ボタンを押すだけで、あるいはキーボードに指を走らせるだけで、10倍、100倍、ときに1000倍もの付加価値を生み出していく。
それは個人名で認識され全国的に知名度を高めた石野氏と、決して個人の名前で呼ばれることのない「配達員」たちの差と言ってもよい。彼我の差は拡大の一途を辿り、子の世代、孫の世代にまで固定化されていく。煌びやかな意匠と何重ものセキュリティを備えたマンションに、配達員たちが住める日は決して訪れない。ドアの隙間から垣間見える、ラグジュアリーな体験に満たされた生活に手が届くことは、たとえ生まれ変わったとしてもあり得ないのだ。
200年前、彼らはヴェルサイユ宮殿に向かってデモ行進をした。だが現代における革命とは、経済のグローバル化とAIテクノロジーによって成就するパラダイム・シフトを指している。Uber Eatsにも中国人の配達員が増えている。短期的には、この国に流入する移民が配達員たちの競争をますます苛烈なものにするだろう。だが長期的には、自動運転の無人配送車が配達員たちを完全に不要なものにするだろう。
もはや失うものなどない「無敵の人」となった配達員たちと、どんなに言葉を交わしても心が通じ合うことはない。ここに来て観測者たる私は断言できる。お互いの縄張りに足を踏み入れぬよう慎重に棲み分け、アプリを介した定型文や絵文字の交換により必要最小限のコミュニケーションを取ることが、唯一にして最適の解なのだ。
週末には大型の台風が東京にやってくる。配達員たちに余計なことを考える暇を与えないほど、たくさんの注文が入ることを願ってやまない。