理解
――なるしまが、びこうをぬけるはなのようなかほりに――目を覚ますと――彼の視界の先には下から見ても随分と美しい詠子の鼻先が見えていて、それは新鮮な光景で、後頭部には僅かな柔らかみがあった。
彼は物心ついて初めて、女性の膝というものを枕にしていた。
「む、起きたか、心配したぞ」
「お早う御座います。どうしてこのような状況に?」
まずは、経緯を知らなければならなかった。
彼は過程というものを大事にする。いやらしいビデオを観るにしても、そこでどれだけ興奮して先を観たくなっても、とりあえず各シーンの切り替わりだけは飛ばさない。なぜ脱ぐのか、なぜその体勢をとったのか、その瞬間はどのように迎えたのか、それを観ておかなければ気が済まない。そうして、いつもビデオと同じようにと決意しているはずなのに、結末を観る前に果ててしまうのだった。
まずは経緯を知らなければ、彼は全力でこの状況を楽しめないのだ。
「――急に君が眠ってしまってね。息はあったものの、多少熱があるようにも思えて、大事をとって医務室に運ぶとか救急車を呼ぶとか話をしていたら、君がうわ言のように『寝るだけなのでお構い無く』と言ったんだ。覚えていないか?」
「はい、全く」
「そうか。それで、頑張った褒美をやれだのとZeusが言うので、私としても特に嫌というわけでもなく、君は喜びそうだったので、私の膝を枕にそのまま寝てもらっていた。嬉しいか?」
「はい、とっても」
「そうか。それは幸いだ。熱も下がったようで良かったよ。まさか倒れるほど無理をさせていたとは、すまなかった」
「いえ、自分でも無理をしたような自覚もなかったので。詠子さんは美し過ぎただけで、俺がちゃんと呼吸するのを忘れて酸欠にでもなったのでしょう」
「フフ、それは私のせいでもあるということじゃないか、美し過ぎて済まなかった。膝枕で許してもらえるか?」
「では、俺がここで深呼吸することを許してください」
「ん?よくわからないが、呼吸など好きにしたらいい」
「それでは失礼して――」
彼はソファーの上で全身を翻し、顔を詠子の股間に埋めた。
「スンッ――ッハ!スンッ!!スンッ!!――ハァッ!」
――これは!! 何か一つだけ、明らかに嗅いだことのないにおいがする! アルコールのように鼻腔から脳に語りかけてくるようなメッセージ性を感じる! これが! これがフェロモンなのか!? 甘いようで仄かに苦いとも言えそうな! ただ!嫌なにおいではない! 噂に聞くような酸っぱいにおいはない! チーズだなんて、嘘じゃないか! なんだろう、わからない! わからないが、ずっと嗅いでいたい――
「全く、本当に気持ちの悪い奴だな。そのデリカシーの無さはどうかと思うぞ」
知恵熱というやつだったのだろうか。
彼自身としても初めてのことで、確証は持てないものの、やはり『相対性理論』が発動し過ぎたことによる反動であると見るのが自然だった。
だが、そんなことはどうでもよく、彼はデニム越しに詠子の股間から漂うであろう芳醇なフェロモンを鼻から身体に取り込んだ。それはもう激しく怒張した。
――なんというか! 少しわかった! このにおいは多分、アルカリ性の何かだ!! そうだろう!? 酸っぱさとは逆の性質を感じるぞ!! それはつまり――
「――ふぅ、結構なお手前で。さては俺に惚れましたね?」
「いや、すまない、異性的な関心はないな。だからこそ、君の常軌を逸した変態行動もさして不快でもない。初対面という事も加味すれば客観的には正気を疑うところだが、君はおそらく極めて素直な人間なのだろう、清々しさを感じたよ。好意を抱いてくれたことは嬉しく思うし、見た目だけだとしても純粋な好意を貰えるのは嬉しいものだ。だが、君が嫌ということではなく、恥ずかしながら、私は未だ性的な事柄への関心や恋愛感情というものがさっぱりわからなくてね」
「なら、試しに俺と付き合ってみましょう。俺が大人トライさんになりますよ」
詠子は処女であった。成島は処女であろうとビッチであろうと、どちらも容姿が美しければ好きだが、自分が童貞である以上、処女という点には特別な意味を見出だす。
ビッチでも「俺が本当の愛を教えるために出会った」などとどうせ特別な意味は見出だすが、今回は「俺が本当の愛を教えるために出会った」などという特別な意味を見出だした。
「フフ、めげない奴だな。君と過ごすのは楽しそうだが、そこまで熱を持たれてしまうと、期待に応えられないのが申し訳なくなるからね。君こそ顔も整っているし、それほどの情熱と気概に行動力、更には聡明ともなれば、女性が放っておかないだろう? 客観的に見れば君は随分といい男だ。私など、君には勿体ないさ」
「俺は童貞ですよ。あなたに捧げるために取っておきましたから」
「なるほど、そういうところじゃないか? もう少し節度というものを身につければ良い」
「押してダメなら引いてみろ、ということですね」
「フフ、まったく、懲りない奴だな。忠告はしたからな、私にもう責任はあるまい」
「ええ、そのうち俺の方が責任を取ることになりますからね」
成島は童貞だか、やたらと余裕のある男だった。あらゆる妄想シチュエーションで場数を踏んできた彼にとって、たとえ人生初でも、膝枕程度では想定内だ。愛のために世界を滅ぼす魔王となれとかでさえ、ギリギリ想定内である。出会って3秒とか、それくらい異常な状況でなければ彼は焦らない。
『――ヒューヒューお前らbe a couple、俺はマイメン入部希望。いいだろコダマ、入部を認めろいい加減』
「それはダメだ」
「ええっ?」
これはどう考えても入部して、ラブコメが始まる展開であると、成島は確信していた。
しかし、詠子は未だ入部を毅然として認めない。
「いや、今回俺が倒れたのは、色々と事情がありまして、普段はあんなことになりませんよ?」
「それとは関係なくね。君はここにいるべきではない、才能があるなら尚更だ。ESS……まあ簡単に言うと英語ディベート部を紹介状するから、そちらに行きなさい」
『fuck!! お前はホントつまらねえ、くだらねえ意地張るんじゃねえ!!』
韻は踏んでいるが、Zeusは僅かに憤りの感情を見せた。
成島にはよくわからないが、何かしら禍根らしきものがあるらしいことは察した。
余計な口を出して地雷を踏まないよう、再び股間に顔を埋めて静かにしておくことにした。
「意地など張っていない。当然のことだ、ディベートをするならあちらに入るべきだろう――」