ホーム全て会議室いま会議室で話していること 私の治った自慢 2019年6月7日2019年6月15日 SHARE ツイート シェア はてブ Google+ Pocket LINE 成人当事者の皆さん、グレーゾーンの皆さん ・前は悩んでいたこんなことが治ったよ ・こんなことに取り組んでみたら効果があったよ というエピソードをどんどんお寄せください! 97 COMMENTS シア 2019年7月9日 最近、転ぶことが減りました。 前庭覚が良くなってきたのかな。 平衡感覚が、よくなってきました。 自転車での転倒がないのがその証拠です。 返信する シア 2019年7月9日 固有受容覚も、整ってきました。 身体をあちこちにぶつけなくなりました。 NLD(非言語性学習障害)は、大脳右半球の発達障害と特定されたそうです。 そのため、言語性が高く、ノンバーバルの遅い人は、右脳の働きが弱い。 そのため、特に、身体の左側を、モノにぶつける現象があります。(石川元) これを、左半側身体(空間)失認と言われます。 高次脳機能障害でも、生じるので、後天的にも起こり得る症状ですね。 これも、だいたいよくなってきました。 返信する シア 2019年7月9日 こんばんは。 栗本さんの、足首と、頸の解説の本を読みました。(芋本) これは、上位ニューロンの問題だそうです。 頸の、第四頸椎の辺りに、問題があると、信号にノイズが入るのか、足首にマヒが起きます。 これを、神経の痙性麻痺と呼びます。 わたしは、この原始反射みたいなののおかげで、歩くことに不自由していた。 それが治ったんです。 返信する ブルー 2019年7月9日 先週、浅見さんに、私が書いた記事を紹介頂きました。 ————————————————————————————————— 「管理人より御連絡&思い付き」より >ブルーさんの「私の治った自慢」を拝見しましたけど、ここから治していくのが「治しやすいところから治す」なわけです。 >ブルーさんの取り組み。 >なるほどこれは治りやすい。 https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/151/comment-page-4/#comment-606 >やはり >・発達障害は、頭蓋骨から解放されている。 >・発達障害は、医療から解放されている(成人なら自分で治すものである)。 >という考え方が良いような感じですね。 ————————————————————————————————— 浅見さん、その節はありがとうございました。 ここで、 >発達障害は、医療から解放されている に関して、成人当事者側の視座がありますので、今回はその掘り下げをしておこうと思いました。 発達障害というと、どうしても、「障害」という文字がドドーンと、そう、「ドドーン」と、絶望的なオーラをまとって目立っておりますね。 あるいは、「障害」とまでいかなくても、発達凸凹と表現されるときでさえ、「凸凹をなんとかしなくてはなあ」となりがちです。 しかし、いうまでもなく、ここで本当に考えなくてはならないのは、「発達」の方です。 人の発達はそもそも「全人的」なものです。発達を見る際には、総合的で、全体的な視野が必要です。身体に限定して着目するだけでも、同様に「全身的」な視野が必要です。 さらに、身体や個人という視野を超えて、その人の「人生全体」でとらえると、つまり「生涯発達」的観点から言えば、人間は社会における人間関係まで含め、「人生まるごと」発達していく存在です。ここでも、総合的で全体的な「全人的」視野が必要だと思います。 このように人の発達を「全人的」に捉えたうえで、この投稿では、「成人当事者にとっての専門家」について考えてみます。 人の発達は多様な分野に渡るので、発達障害に関しても、必然的に様々な分野の専門家が視野に入ります。この場合の「発達」は、社会的関係の発達まで含んでいるので、社会的な分野の専門家まで視野に入ります。 専門分野をざっとあげるだけでも ・医療 ・心理 ・公共/自治体 ・福祉 ・就労(福祉系・ビジネス系) ・教育(特別支援) ・法律(発達障害専門の法律家、というのは、私は見たことがないのですが、どうしてもこの領域が関わることがありますね。残念なケースとして) ざっとあげるだけでもこれだけ挙がります。 ただ、発達障害の当事者にとって、最初の段階で確保しなくてはいけないのは、ここに挙げた分野の人達よりも、むしろ ・治療(⇒特に、徒手系治療家) の分野の専門家だと、個人的には思っているのですが、この人達は、発達障害を専門にしていません。それどころか、発達障害そのものにはそれ程詳しくない。 (※しかし、だからこそ、自分にとって適切な人を発見できると、とても頼りになる、という性質を持っています)しかし、この件は別の記事で重点的に書きます。 ともあれ、「発達」という全人的な事象において、もしも専門家を頼るならば、これだけの種類の専門家が視野に入ります。つまり「医療」というのは、当事者にとっては、あくまで「発達に関する、多様な専門分野の一つ」に過ぎないわけです。 花風社は「発達援助の非医療化」を旗印に掲げておられますが、確かに人の発達は、医療など、単一の専門分野を超えて、全人的に起きている事象ですから、発達援助においては、専門家がいらない場合はいりません。自助手段でいけるものはいけます。 そして、自助手段で及ばない場合については、適宜、必要な分野の専門家に依頼することになります。その際には専門家の技術・識見のレベルや、専門家と自分の相性も踏まえ、自分で責任を持って専門家の吟味を行い、依頼するということになります。 この「専門家の吟味」に関して、私の個人的な観点を書くと、専門家に対しては、良くも悪くも「自分個人にとって、使えるか使えないか・役に立つか否か」という観点が最上位になります。 自分が現実社会で(時には手段を選ばず)生存するために「使えるか否か」「役に立つか否か」、という観点を最優先して、専門家を選びます。 つまり・・・いろいろな意味で「正しいか否か」ではありません。これはまた別の機会に。 ともあれ、専門家を利用する側から見れば、発達障害における医療は、「関連する多様な専門分野の一つ」に過ぎないし、結果として、「専門家の中で最も偉い」存在でもありません。 つまり、私から見ると、発達障害に関しては、医療は絶対視されず、「相対化」されています。 関連して、心ある医師の方は、発達障害に関して「医療には限界がある」ことを認めてらっしゃいますね。 それは、現代医学の限界とか、治せる・治せないとかいうこと以前に、本来、全人的で総合的な「発達」という事象においては、「専門家は自分の専門分野において活躍をする」、という原則的なことを、意識的であれ、無意識的であれ、感じ取られた上での発言だと捉えております。 「発達障害は、医療から解放されている」を、「成人当事者側からの、専門家の吟味」という観点から考えると、こういう感じです。 今回は以上です。 そして、次回こそ、当事者が最初に確保すべきかな、と私が個人的に感じている専門家、「徒手系治療家」と二人三脚で歩んだ日々について書き始める予定です・・・。 それではまた。 返信する 過去のコメントを表示 コメントを残す コメントをキャンセル メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目ですコメント 名前 * メールアドレス * サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 上に表示された文字を入力してください。 画像アップロード(PNG, JPG, JPEG)
シア 2019年7月9日 固有受容覚も、整ってきました。 身体をあちこちにぶつけなくなりました。 NLD(非言語性学習障害)は、大脳右半球の発達障害と特定されたそうです。 そのため、言語性が高く、ノンバーバルの遅い人は、右脳の働きが弱い。 そのため、特に、身体の左側を、モノにぶつける現象があります。(石川元) これを、左半側身体(空間)失認と言われます。 高次脳機能障害でも、生じるので、後天的にも起こり得る症状ですね。 これも、だいたいよくなってきました。 返信する
シア 2019年7月9日 こんばんは。 栗本さんの、足首と、頸の解説の本を読みました。(芋本) これは、上位ニューロンの問題だそうです。 頸の、第四頸椎の辺りに、問題があると、信号にノイズが入るのか、足首にマヒが起きます。 これを、神経の痙性麻痺と呼びます。 わたしは、この原始反射みたいなののおかげで、歩くことに不自由していた。 それが治ったんです。 返信する
ブルー 2019年7月9日 先週、浅見さんに、私が書いた記事を紹介頂きました。 ————————————————————————————————— 「管理人より御連絡&思い付き」より >ブルーさんの「私の治った自慢」を拝見しましたけど、ここから治していくのが「治しやすいところから治す」なわけです。 >ブルーさんの取り組み。 >なるほどこれは治りやすい。 https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/151/comment-page-4/#comment-606 >やはり >・発達障害は、頭蓋骨から解放されている。 >・発達障害は、医療から解放されている(成人なら自分で治すものである)。 >という考え方が良いような感じですね。 ————————————————————————————————— 浅見さん、その節はありがとうございました。 ここで、 >発達障害は、医療から解放されている に関して、成人当事者側の視座がありますので、今回はその掘り下げをしておこうと思いました。 発達障害というと、どうしても、「障害」という文字がドドーンと、そう、「ドドーン」と、絶望的なオーラをまとって目立っておりますね。 あるいは、「障害」とまでいかなくても、発達凸凹と表現されるときでさえ、「凸凹をなんとかしなくてはなあ」となりがちです。 しかし、いうまでもなく、ここで本当に考えなくてはならないのは、「発達」の方です。 人の発達はそもそも「全人的」なものです。発達を見る際には、総合的で、全体的な視野が必要です。身体に限定して着目するだけでも、同様に「全身的」な視野が必要です。 さらに、身体や個人という視野を超えて、その人の「人生全体」でとらえると、つまり「生涯発達」的観点から言えば、人間は社会における人間関係まで含め、「人生まるごと」発達していく存在です。ここでも、総合的で全体的な「全人的」視野が必要だと思います。 このように人の発達を「全人的」に捉えたうえで、この投稿では、「成人当事者にとっての専門家」について考えてみます。 人の発達は多様な分野に渡るので、発達障害に関しても、必然的に様々な分野の専門家が視野に入ります。この場合の「発達」は、社会的関係の発達まで含んでいるので、社会的な分野の専門家まで視野に入ります。 専門分野をざっとあげるだけでも ・医療 ・心理 ・公共/自治体 ・福祉 ・就労(福祉系・ビジネス系) ・教育(特別支援) ・法律(発達障害専門の法律家、というのは、私は見たことがないのですが、どうしてもこの領域が関わることがありますね。残念なケースとして) ざっとあげるだけでもこれだけ挙がります。 ただ、発達障害の当事者にとって、最初の段階で確保しなくてはいけないのは、ここに挙げた分野の人達よりも、むしろ ・治療(⇒特に、徒手系治療家) の分野の専門家だと、個人的には思っているのですが、この人達は、発達障害を専門にしていません。それどころか、発達障害そのものにはそれ程詳しくない。 (※しかし、だからこそ、自分にとって適切な人を発見できると、とても頼りになる、という性質を持っています)しかし、この件は別の記事で重点的に書きます。 ともあれ、「発達」という全人的な事象において、もしも専門家を頼るならば、これだけの種類の専門家が視野に入ります。つまり「医療」というのは、当事者にとっては、あくまで「発達に関する、多様な専門分野の一つ」に過ぎないわけです。 花風社は「発達援助の非医療化」を旗印に掲げておられますが、確かに人の発達は、医療など、単一の専門分野を超えて、全人的に起きている事象ですから、発達援助においては、専門家がいらない場合はいりません。自助手段でいけるものはいけます。 そして、自助手段で及ばない場合については、適宜、必要な分野の専門家に依頼することになります。その際には専門家の技術・識見のレベルや、専門家と自分の相性も踏まえ、自分で責任を持って専門家の吟味を行い、依頼するということになります。 この「専門家の吟味」に関して、私の個人的な観点を書くと、専門家に対しては、良くも悪くも「自分個人にとって、使えるか使えないか・役に立つか否か」という観点が最上位になります。 自分が現実社会で(時には手段を選ばず)生存するために「使えるか否か」「役に立つか否か」、という観点を最優先して、専門家を選びます。 つまり・・・いろいろな意味で「正しいか否か」ではありません。これはまた別の機会に。 ともあれ、専門家を利用する側から見れば、発達障害における医療は、「関連する多様な専門分野の一つ」に過ぎないし、結果として、「専門家の中で最も偉い」存在でもありません。 つまり、私から見ると、発達障害に関しては、医療は絶対視されず、「相対化」されています。 関連して、心ある医師の方は、発達障害に関して「医療には限界がある」ことを認めてらっしゃいますね。 それは、現代医学の限界とか、治せる・治せないとかいうこと以前に、本来、全人的で総合的な「発達」という事象においては、「専門家は自分の専門分野において活躍をする」、という原則的なことを、意識的であれ、無意識的であれ、感じ取られた上での発言だと捉えております。 「発達障害は、医療から解放されている」を、「成人当事者側からの、専門家の吟味」という観点から考えると、こういう感じです。 今回は以上です。 そして、次回こそ、当事者が最初に確保すべきかな、と私が個人的に感じている専門家、「徒手系治療家」と二人三脚で歩んだ日々について書き始める予定です・・・。 それではまた。 返信する
最近、転ぶことが減りました。
前庭覚が良くなってきたのかな。
平衡感覚が、よくなってきました。
自転車での転倒がないのがその証拠です。
固有受容覚も、整ってきました。
身体をあちこちにぶつけなくなりました。
NLD(非言語性学習障害)は、大脳右半球の発達障害と特定されたそうです。
そのため、言語性が高く、ノンバーバルの遅い人は、右脳の働きが弱い。
そのため、特に、身体の左側を、モノにぶつける現象があります。(石川元)
これを、左半側身体(空間)失認と言われます。
高次脳機能障害でも、生じるので、後天的にも起こり得る症状ですね。
これも、だいたいよくなってきました。
こんばんは。
栗本さんの、足首と、頸の解説の本を読みました。(芋本)
これは、上位ニューロンの問題だそうです。
頸の、第四頸椎の辺りに、問題があると、信号にノイズが入るのか、足首にマヒが起きます。
これを、神経の痙性麻痺と呼びます。
わたしは、この原始反射みたいなののおかげで、歩くことに不自由していた。
それが治ったんです。
先週、浅見さんに、私が書いた記事を紹介頂きました。
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「管理人より御連絡&思い付き」より
>ブルーさんの「私の治った自慢」を拝見しましたけど、ここから治していくのが「治しやすいところから治す」なわけです。
>ブルーさんの取り組み。
>なるほどこれは治りやすい。
https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/151/comment-page-4/#comment-606
>やはり
>・発達障害は、頭蓋骨から解放されている。
>・発達障害は、医療から解放されている(成人なら自分で治すものである)。
>という考え方が良いような感じですね。
—————————————————————————————————
浅見さん、その節はありがとうございました。
ここで、
>発達障害は、医療から解放されている
に関して、成人当事者側の視座がありますので、今回はその掘り下げをしておこうと思いました。
発達障害というと、どうしても、「障害」という文字がドドーンと、そう、「ドドーン」と、絶望的なオーラをまとって目立っておりますね。
あるいは、「障害」とまでいかなくても、発達凸凹と表現されるときでさえ、「凸凹をなんとかしなくてはなあ」となりがちです。
しかし、いうまでもなく、ここで本当に考えなくてはならないのは、「発達」の方です。
人の発達はそもそも「全人的」なものです。発達を見る際には、総合的で、全体的な視野が必要です。身体に限定して着目するだけでも、同様に「全身的」な視野が必要です。
さらに、身体や個人という視野を超えて、その人の「人生全体」でとらえると、つまり「生涯発達」的観点から言えば、人間は社会における人間関係まで含め、「人生まるごと」発達していく存在です。ここでも、総合的で全体的な「全人的」視野が必要だと思います。
このように人の発達を「全人的」に捉えたうえで、この投稿では、「成人当事者にとっての専門家」について考えてみます。
人の発達は多様な分野に渡るので、発達障害に関しても、必然的に様々な分野の専門家が視野に入ります。この場合の「発達」は、社会的関係の発達まで含んでいるので、社会的な分野の専門家まで視野に入ります。
専門分野をざっとあげるだけでも
・医療
・心理
・公共/自治体
・福祉
・就労(福祉系・ビジネス系)
・教育(特別支援)
・法律(発達障害専門の法律家、というのは、私は見たことがないのですが、どうしてもこの領域が関わることがありますね。残念なケースとして)
ざっとあげるだけでもこれだけ挙がります。
ただ、発達障害の当事者にとって、最初の段階で確保しなくてはいけないのは、ここに挙げた分野の人達よりも、むしろ
・治療(⇒特に、徒手系治療家)
の分野の専門家だと、個人的には思っているのですが、この人達は、発達障害を専門にしていません。それどころか、発達障害そのものにはそれ程詳しくない。
(※しかし、だからこそ、自分にとって適切な人を発見できると、とても頼りになる、という性質を持っています)しかし、この件は別の記事で重点的に書きます。
ともあれ、「発達」という全人的な事象において、もしも専門家を頼るならば、これだけの種類の専門家が視野に入ります。つまり「医療」というのは、当事者にとっては、あくまで「発達に関する、多様な専門分野の一つ」に過ぎないわけです。
花風社は「発達援助の非医療化」を旗印に掲げておられますが、確かに人の発達は、医療など、単一の専門分野を超えて、全人的に起きている事象ですから、発達援助においては、専門家がいらない場合はいりません。自助手段でいけるものはいけます。
そして、自助手段で及ばない場合については、適宜、必要な分野の専門家に依頼することになります。その際には専門家の技術・識見のレベルや、専門家と自分の相性も踏まえ、自分で責任を持って専門家の吟味を行い、依頼するということになります。
この「専門家の吟味」に関して、私の個人的な観点を書くと、専門家に対しては、良くも悪くも「自分個人にとって、使えるか使えないか・役に立つか否か」という観点が最上位になります。
自分が現実社会で(時には手段を選ばず)生存するために「使えるか否か」「役に立つか否か」、という観点を最優先して、専門家を選びます。
つまり・・・いろいろな意味で「正しいか否か」ではありません。これはまた別の機会に。
ともあれ、専門家を利用する側から見れば、発達障害における医療は、「関連する多様な専門分野の一つ」に過ぎないし、結果として、「専門家の中で最も偉い」存在でもありません。
つまり、私から見ると、発達障害に関しては、医療は絶対視されず、「相対化」されています。
関連して、心ある医師の方は、発達障害に関して「医療には限界がある」ことを認めてらっしゃいますね。
それは、現代医学の限界とか、治せる・治せないとかいうこと以前に、本来、全人的で総合的な「発達」という事象においては、「専門家は自分の専門分野において活躍をする」、という原則的なことを、意識的であれ、無意識的であれ、感じ取られた上での発言だと捉えております。
「発達障害は、医療から解放されている」を、「成人当事者側からの、専門家の吟味」という観点から考えると、こういう感じです。
今回は以上です。
そして、次回こそ、当事者が最初に確保すべきかな、と私が個人的に感じている専門家、「徒手系治療家」と二人三脚で歩んだ日々について書き始める予定です・・・。
それではまた。