翻訳とはなにか、ということについてTeju Coleが簡潔に述べている。
The English word translation comes from the Middle English, which originates from the Anglo-French translater. That in turn descends from the Latin translatus: trans, across or over, and latus, which is the past participle of ferre, to carry, related to the English word “ferry.” The translator, then, is the ferry operator, carrying meaning from words on that shore to words on this shore.
「翻訳家とは、渡し守なのだ」
日本は国そのものをつくる土台を翻訳におおきく依存してきた。
数学という言語を直截運用する能力を身に付けたほかは、世界への理解をおおきく翻訳に依存してきたとおもいます。
むかし2ちゃんねるという掲示板があって、ここではさまざまな破壊がおこなわれていて、それ自体は旧弊がたくさん残っている日本という社会ではいいことだったとおもうが、あっというまに、詭弁や相手がいうことを編集して、もっともらしく自分の主張が正しく見えるように引用する、といういわば「悪知恵」ばかりが発達して、結果としては、日本の、そもそもマスメディアが機能していない世界で、ゆいいつの希望だったネットメディアを腐敗させる元凶になった掲示板があった。
この掲示板から発生して、新しくビジネスモデルとしてコミュニティモデルを採用した「はてな」という会社のサイトに2ちゃんねるのなかでも詭弁と攻撃性が発達したグループが、このコミュニティに移動します。
日本語にあきてきてしまったので、立ち去る前に、なにかひとつ貢献をしておこうとおもって、なぜ日本語ではネット言論が健全に発達できなかったか、というその仕組みを可視化しておこうと考えた。
その前に、主にtwitterのタイムライン上でintegrityについてのみんなの考察から、日本語にはそもそもintegrityという語彙そのものがないことの発見があって、そのことから出発して、いまの日本を歪めているのは、倫理の欠落であると考えて、そういえば自分には10年しつこくつきまとっているトロルがいたよね、あれを例にすればいい、とおもいついたのでした。
その人物は一方で怪物的な精神を病んだトロルとしてこれと目を付けた「敵」にありとあらゆる汚いやりかたで攻撃をしかけながら、一方では、すました顔で流行の左翼言説の「公約数」を述べて左翼知識人たちにとりいる、といういかにも日本人らしい、といいたくなる芸をみせていた。
そういうことが大好きなひとたちは、「ああ、あのひとね。でも、おもしろいじゃない」くらいで、すぐに名前はわかるでしょう。
その西洋ならばとんでもない、そもそもなにをやっているか判ったとたんに一瞬で言論社会どころか社会そのものから葬られるべき人物も、日本では、「たしかに感心はできないが、でも、いいことを言っているんだからいいんじゃないか」ですむことも知っていた。
若い世代は、比較的、考え方が日本人以外に近い人がおおいので、いまは全然だめでも、あとから来る人は、「なるほど、こういう病によって日本は戦争に踏み出し、国を荒野に変えたのか」と判るようにしておこうと考えたのでした。
比較的にうまくいった証拠には、だいたい半分になるだろうと予想していたフォロワー数が200減くらいで終わったので、不正を目にみるとあわてて逃げ出すか不正をおこなっているがわにつく日本語の人のもともとの習性を考えると、浮き彫りにするのに使ったのと同じグループがぼくに対してネットストーキングとハラスメントを始めた10年前と較べると、日本語のネット世界もずいぶん変わったものだなあ、と感心しました。
そのうえ、twitterのダイレクトメールやemail、「載せないでくださいね」という注意とともにくるブログ記事へのコメントの形で、社会的に地位や名前がある人たちからもないひとたちからも、ずいぶん「励ましのお便り」みたいなのがたくさん来て、これについては西洋人が聞けば「そんな、卑怯な」というかもしれないが、日本の社会は倫理というものを置き去りにしてきた特殊な近代の歴史をもっているので、社会がやくざやゴロツキ集団、あるいはイジメ集団に対して、まったく無力で、そもそもそういうことは人間として最低のことだという認識もないので、抗議の声をあげてもいいことはなにもないのがわかっているので、無理もない、というか、あんまり非難する気持も起こらない。
日本の社会が倫理の語彙、たとえばintegrityやcommitmentに訳語を与えなかったのは、そういう語彙が富国強兵に役に立たないだけではなくて、例えば、目の前の中国人を銃剣で突けと命令しているのに、良心などもたれて命令に服従しないようになれば、軍隊、ひいては国家など成り立たない、という判断によっている。
倫理を輸入しないと決めたことの理屈としては、例えば日本では広く知られているらしいThe Crysanthemum and the Sword(「菊と刀」)のなかでRuth Benedictがこう戦後すぐの日本人たちに事情聴取した結果を述べている
The Japanese have always been extremely explicit in denying that virtue consists in fighting evil. As their philosophers and religious teachers have constantly said for centuries such a moral code is alien to Japan. They are loud in proclaiming that this proves the moral superiority of their own people. The Chinese, they say, had to have a moral code which raised jen, just and benevolent behavior, to an absolute standard, by applying which all men and acts could be found wanting if they fell short ‘A moral code was good for the Chinese whose inferior natures required such artificial means of restraint.’ So wrote the great eighteenth-century Shintoist, Motoöri, and modern Buddhist teachers and modern nationalistic leaders have written and spoken on the same theme. Human nature in Japan, they say, is naturally good and to be trusted. It does not need to fight an evil half of itself. It needs to cleanse the windows of its soul and act with appropriateness on every different occasion. If it has allowed itself to become ‘dirty,’ impurities are readily removed and man’s essential goodness shines forth again. Buddhist philosophy has gone farther in Japan than in any other nation in teaching that every man is a potential Buddha and that rules of virtue are not in the sacred writings but in what one uncovers within one’s own enlightened and innocent soul. Why should one distrust what one finds there? No evil is inherent in man’s soul.
日本人はこれまで一貫して 、悪との闘いの中に善があるという考えをきわめて断定的に否定してきた 。そのような倫理規範は日本にとって無縁のものである 。日本の 、学問にたずさわる人々や神仏の道を説く人々は 、何世紀にもわたって絶えずそのように指摘してきた 。彼らは声を大にして 、 「このことから 、日本人が倫理の点で優れていることが分かる 」と唱える 。日本人によれば 、中国人は 、仁 (正義と慈悲に満ちた振る舞い )を絶対的な基準とする道徳律を設けなければならなかった 。すべての人間および行動は 、そのような基準に照らして初めて──その基準に達していなければ──欠陥を露呈するというわけである 。 「道徳律というものは 、漢人にとって望ましいものであった 。というのも漢人は 、性根が劣っているのでそのような人為的な拘束の手段を必要としていたからである 」 。このように述べているのは 、一八世紀の偉大な神道学者 、本居宣長 (一七三〇 ~一八〇一年 )である 。そして 、現代の仏教を説く人々や 、現代の国家主義的な指導者たちも同じテ ーマを繰り返し論じてきた 。彼らに言わせると 、日本では人間性はもともと善であり 、信ずるに足るものである 。人間性は 、その半分を占める悪と闘う必要はない 。する必要があるのは 、心の窓をきれいにしておくことである 。また 、それぞれの異なる場においてしかるべく振る舞うことである 。人間性がやむなく 「汚れた 」状態になったとしても 、汚れは難なく拭い去られる 。そして 、人間の本質的な善がふたたび輝きを放つ 。日本の仏教の教えは 、どこの国の仏教よりも徹底して次のように説く 。人はみな 、いずれ仏になる可能性を秘めている 。道徳は経典の中にあるのではない 。邪念のない 、達観したおのれの心の内を覗けば 、おのずとそこに道徳が見つかる 。心の中に見つかるものを 、どうして疑わなければならないのか 。人間の心にはもともと悪は存在しない──。(角田安正 訳)
意図的に倫理語彙をブロックしていたわけで、今日、日本の人が苦しんでいるのは、つまりは近代の始まりに、日本人が西洋語とその結果である西洋社会の構造を誤解したことによっている。
「社会の役に立つことだけを取り入れる」と固く決めた結果、倫理は向こう岸に置き去りにしておけ、と「渡し守」は申し渡されたのだった。
結果は、悲惨などというものではなくて、なにしろ善悪自体が相対的な世にもデタラメは社会が成立してしまった。
Warren Buffetという読書家の投資がうまいじーちゃんが、どこかの大学の卒業式で、こんなふうに述べている
“Somebody once said that in looking for people to hire, you look for three qualities: integrity, intelligence, and energy. And if you don’t have the first, the other two will kill you. You think about it; it’s true. If you hire somebody without [integrity], you really want them to be dumb and lazy.”
人間を雇うときには、integrity、知力、活力のみっつを見て雇用するが知力と活力があってintegrityがない人間を雇うのは最悪である、とじーちゃんは述べる。
Integrityがない人間は、いっそバカで怠け者でなくては周りは傍迷惑このうえない、と言うのです。
なんだか、ひどいけれども、日本という国を考えると、精力にあふれて、頭がきれて、倫理はかけらもない、ここで描かれた青年をおもい浮かべることがおおくなった。
他の国をさんざん苦しめたあとで、倫理が拠っている「絶対」を信じられなかった日本人は、いまは自傷行為というべきか、自分自身の攻撃性と倫理の欠如によって、自分を痛めつけて苦しんでいるように見えます。
日本語ネットの世界はすさまじい声で咆哮しながら、自分の身体に牙を立てて噛みついている、黒い獣をおもわせる。
凄惨な様相を呈している。
わしは自分の日本語との付き合いの最後に、「やれるだけのことはやった」とエラソーに何度も述べているが、ほんとうにそうかどうか、自信がありません。
あれほど美しい表現をたくさん教えてくれたのだから、日本語にもっと付きあうべきだったかも知れない。
しかし言い訳をすると人間の一生は寿命とおなじというわけではなくて、まともにものが考えられるのはだいたい50年あればいいほうで、たいていは20歳から50歳くらいのもので、30年もない。
もちろん日本語だけやっていたわけではなくて、なにしろ、たとえば日本語ツイッタならば、スペインの映画をみながらゲームを一方ではやっていて、最近ではそのうえにslack crawlもやっているというていたらくで、相も変わらぬテキトーさだが、それにしても、もう10年やっているんだから、そろそろいいだろう、という気持があります。
ブログを閉めると述べたら、「たくさん」と表現したくなる人達から「うちから本を出しませんか」と言ってきて、なにしろありがたいので、このあとは日本語でも本を書いて、ブログのほうはお友達たちに約束した「豪華私家本」、壮麗なilluminated book、は嘘だが、せめて装幀を紙質にだけは商売の出版社ではのぞみえないオカネをつかって、贈答用に製本しようとおもっています。
ブログも、このあとも書くのではなかろうか、というのは、日本語でブログを書くのは良い刺激になる。
この記事はそういう種類のものではないが、なかには日本語でしか出来ない表現を追究して、ええええっ、こんな表現が可能なのか、日本語ってカッコイイ、とケーハクにうっとりしてしまうことも多いので、なんだかやめると自分ひとりしか読まないと仮定してももったいないような気がする。
日本語社会への還元を考えないのに、自分とお友達たちだけのために文章を書くというのは、わがままだが、もとからわがままなので、別にいいだろう、というすごい理屈もあります。
ただ曲もなくおなじスタイルで続けていっても自分でも退屈なだけで、な、な、なんだこれは、という記事が混ざるでしょうけど、まあ、長年の付き合いの誼で我慢してくれるよーに。
でわ
おぉ, commitmentもそうなのか. Google翻訳は”言質”だって. どういうことw
Google翻訳はネット上の日本語文書の集積から作ってるわけで, そういう意味じゃ今の日本語の訳語になるのかね.
漢字2文字にこだわっても, “貢献”とか”参画”とかだとしっくりこない感があって, “専念”ならまだマシかな. とにかく”言質”はやらされてる感が日本語らしいね.
聞いたか? commitmentは取ったぞ! やっぱりおかしいね. それじゃOSSみたいなのはできないなw
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