努力と恥ずかしさ


大したことではないかもしれないようなことを、一生懸命に学ぼうとしている自分は、少し格好悪いような気がする。そして、もしどんなに努力しても分からなかったら、自分は馬鹿だということになってしまうと考えたりもする。

そんな恐れに負けて、努力しなければならないはじめの地点から、あらかじめ逃げ出してしまう人がいる。「自分はまだ本気になっていない。一生懸命勉強したことがないがないからできないだけで、本当はやる気でやればできるのだ」と。

そんな言い訳をしながら逃げてばかりの人がいる。けれどももちろん、そんな考えは馬鹿げたものだ。なぜなら、「やればできる」というのは当たり前の話だからだ。

やってもできなかったのは頭が悪いせいではなくて、やり方がおかしかったり教えてくれる人や教材が良くなかったりしたという、ただそれだけの話だ。だから、そもそも、「やれる」ということがほとんどすべてなのである。それなのに、「本気になればできる」などと言うのは、おかしな話である。

また、こんなことを言う人もいる。「あれだけやれば、できて当然だ」と。私はこれもまた、随分と愚かしい言葉だと思う。何より、「やれる」ということが大事なことなのだからだ。そしてもし、「少ししかやっていないのに結構できてしまう」などということを自慢にするのなら、それは虚しく嫌らしいことだとも言えるだろう。

「やればできる」ということからいつでも言えることは、「できないということは、やっていない」ということだけれども、大概の人は「やらないとできない」のが普通だろう。

恐らく、どんなものにせよ試験を行う側というのは、受験者が勉強を「やってきた」ということ以上に、「これからもやれる」ということを確かめたいのではないだろうか。ただ試験をパスしてそれでお終いということは、どんな試験にせよ、ありえない話だろう。だからつまりは、いつでも続きがあるということだ。

そこでは新しいことを学ぶ必要があるだろうし、学び終えたことにしても、また新たに何度も学び直さなければならないだろう。なぜなら、多くの分野で日々進歩していく部分はあるのだし、すでに学んだことでも、いつも使って鍛えていなければ次第に失われていくものだからである。つまり、「必要とされることを十分に学んできたか」も大事だけれども、「これからも学んでいくことができるか」ということが、とても大切なのだ。

試験をパスできたということから、「試験の直前まである一定の期間、ずっと学ぶ努力を続けてきたのだろう」ということが想像できる。そしてそこから、「この人はこれからも学び続けることができるだろう」という予想が立てられる。だから、資格を与えるときにも人を採用するときにも、試験をするのである。試験に臨むための準備で継続されていた努力が、人を納得させるという訳だ。

継続された努力は、人を信頼させる力を私たちに与えてくれる。そのことを否定してしまうことは、多分誰にもできない。「自分はできるようになります」と言うだけで、結局のところ何もしてこなかった人間を信用することなど、誰にとっても難しいことだろうからだ。

努力する自分の姿は、恥かしいものかもしれない。何かと格闘するしている自分が、みっともなく感じられてしまうこともあるだろう。そして、そこまでしても結果が伴わなければ、自分の価値が危ぶまれてしまうと考えれば、それは恐ろしいものですらある。

けれども、努力を恥じることや努力してもできない自分を恥じることなどは、下らない自意識に過ぎないとも言えるに違いない。そう捉えれば、馬鹿らしい自意識を大事に抱えている自分をこそ恥じるべきだというようにも考えられる。

いずれにせよ、何もやらないうちから言い訳をしていたところで、何ができるようになる訳でもないだろう。少なくとも、それだけは間違いのないところだ。自分がする「マイナス方向の努力」に酔ってしまってはいけないことを、我々はもう知っているはずだ。であるならば、努力を恥じる必要など、もうどこにもないのではないだろうか。


<<< - ^^^ - >>>


Yahoo!繧ク繧ェ繧キ繝�ぅ繝シ繧コ
Yahoo!繧ク繧ェ繧キ繝�ぅ繝シ繧コ