勉強の効用 3


私が考えた勉強のもう一つの効用は、「勉強は世界の見方を変えてくれる」というものだ。けれども、これは説明するのが難しい。つまり、勉強が世界の見方を変えるということと、それ自体の重要性とを明確に示すのは難しい。なぜなら、何かを知ることでもう変わってしまった世界から、もとの世界のことを考えるのは難しいことであるからだ。

例えば、すでに分かってしまっている人にとって、かけ算を知らない世界を想像するのは難しい。時間と距離と速度の関係を自分が分かっていないような状態や三次元座標というものを知らない状態を想像するのも、また然りである。

色々なことを知らない、分かっていないということは、知らなくて困るというだけでなく、自分にとっての世界が、すでにそれを知っている人と違っているということだ。あることを分かっていない人は、それが分かっている人と違う世界に住んでいるのである。

例えば、三次元座標というものを知ることで、地球の裏側でも同じ均一な空間が広がっている、と世界を捉えることができるようになる。逆に言うと、そんな考えがなかった昔は、空間が均一だと考えられていなかったのかもしれないと想像することができる。

それはつまり、自分の家の中と墓場や山奥とでは、空間の密度が違うと考えられていた、というようなことだ。この話がピンとこない人は、多分、三次元座標という考えが分かっていない人だ。だから大げさに言えば、私と違う世界で生活している人なのである。

また、世界の見方が変わることの意味を理解するのが難しいのには、分かってしまったことというのは当たり前のことになってしまいやすいから、という理由もあるのかもしれない。分かってしまった人からすれば、分からない人は、「どうしてこんな簡単なことが分からないのか」と感じられる。そして、自分もそうだったという事実も忘れ去られてしまう。だから、世界の新しい捉え方を獲得したとしても、そのことの大切さもまた見過ごされてしまいやすいのではないだろうか。

そういう訳で、新しいものの考え方を学ぶことの重要性は認められにくいものなのだと、私には感じられる。そのうえ、自分が知らない高度な知識を知ることで、どんな風に世界が変わるかと言うことは、考えるのが難しいどころか、まったく考えられない。なぜなら、それをまだ知らないからである。

だから、人はすぐにこう言いたがる。「自分がいま分かっているくらいにものごとが分かっていれば、それで十分だろう」と。けれども、十分であるかどうかは絶対に分からない。なぜなら、自分が知らないものについて、どうこう言うことはできないからだ。知らないことについて、語ることはできない。これは当たり前のことだけれども、よく無視されてしまう事柄である。

マンガを読んだことのない人が、「マンガなんて下らないに決まってる」と言うと、マンガ好きの人は「読んだこともないのに、下らないことを言うな」と文句を言うだろう。けれども、そう言いながらも、自分では「数学なんて社会に出たら何の役にも立たないのだから、そんなものはいらない」と言ってしまったりする。自分が、「数学」というものを知っている訳でもないのに、である。つまり、知りもしないことについて意見しようとしているという意味では、やっていることはどちらも同じということだ。

自分の知らないことについては、誰も何も言えない。だから、自分が新しいことを学ぶ必要はないとは、誰にも言えない。けれども、この表現は消極的なものでしかない。こういう表現をしてしまうのは、勉強することで自分にとっての世界を変えることの大切さを、積極的に示すのが難しいからである。

私が言えるのは、ただ、「世界の狭さというのは、愚かしさと結び付いているだろう」ということだけだ。子供は、大人から見れば大して問題でもないものを、深刻に考えたり大騒ぎしたりする。それは、子供の世界が狭いからである。では、何か大切なことを学んでいないことで、自分が子供のような世界の狭さを持ってはいないか、という疑いも成り立つのではないだろうか。

技術的な分野を学んできた、いわゆる「理系」の人の一部にも、そういう狭い世界に閉じ籠もってしまっている人たちがいるものだ。彼らの中では、自分の世界のほとんど全部が、自分の興味のある分野だけで作られている、ということになってしまっていることが多い。

だから例えば、自分の持つ技術を誰もが尊重すると勝手に思い込んでいる。また、その分野の知識や技術を人が持っていないということを、ことさら軽蔑したりする。そして、神秘的なものにすぐに頭をやられてしまって、おかしな新興宗教に入ってしまったりまでするのである。つまり、自分の世界が狭いために、そういう幼さをいつまでも持ってしまっているという訳だ。

自分がこだわっている問題を、もうすでに誰かが解決しているかもしれない。その問題そのものでなくても、解決するためのヒントになるようなことを誰かが考えているかもしれない。そもそも、それほど重要な問題ではないのかもしれない。そういう予感が、そこには欠けているのではないだろうか。

自分を魅了するようなことが、学問の世界に眠っているかもしれない。自分の世界を一変させるようなことが、勉強することで得られるかもしれない。それを知ってしまったら、知らなかった自分が愚かに見えてしまうようなことが、自分には見えていないどこかに、もしかするとあるのかもしれない。そういう可能性は、どこまで学んで行っても、最後まで否定することができないものだ。

私が本を読むときにはいつでも、自分では考えつかないような、だから、自分にとってまったく新しいものの見方をその本から学ぶことで、別の世界にもう一度自分で自分を生まれ変わらせることができるかもしれないという、そんな期待を少しだけ抱いている。

世界が狭いということが、自分が詰まらないものに捕らわれてしまうことの原因ならば、新しいものの見方を学ぶことは、自分を解放することだとは言えないだろうか。そして、世界を新たに見いだそうとすることは、いまの自分以上に世界を味わい尽くそうとすることだとは、言えないだろうか。

ただ普通に生活をしていて分かる世界の見方だけを知って、それで一生を過ごすのは少しもったいないような気が、私にはしてしまう。自分には分かっていないような世界の見方を編み出した人たち、そういう人たちと同じように新しい見方を創り出すことができれば、きっと素晴らしいに違いない。それが無理だとしても、彼らがどんな風に世界を見ていたのか、私は知りたいと思う。

いまは知らない世界の見方を学んで、自分を解放すること。そして、優れた人たちが見たのと同じように世界を見て、それを味わうこと。勉強がもたらしてくれる効用として私が考えるのは、つまりは、そういうことである。


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