補説27
「呪われたスヴャトポルク」と弟たち
スヴャトポルク公はその出生からして不幸であったと言えます。
彼の父であるウラジーミル公は、長兄ヤロポルクとの血の抗争の末に権力を得ました。このヤロポルクの妻はギリシア出身の元修道女で、父スヴャトスラフがかつてビザンツ遠征の際にその美貌を見てルーシに連れ帰り、長子ヤロポルクに与えたのでした。そしてウラジーミルもまた彼女に惹かれ、ヤロポルクを殺してキエフの支配者となった後で強引に自分のものとしています。スヴャトポルクはこの女性から生まれた子でした。
問題は、彼女がウラジーミルに奪われたとき既に妊娠していたらしいことです。当然のことながら、こうして生まれたスヴャトポルクはその血統に疑問が持たれました。「罪の根からは邪悪な果実が生じるものである。…父(ウラジーミル)は彼を愛していなかった。彼がヤロポルクとウラジーミルという二人の父によって生れた子だったからである…」年代記作者はスヴャトポルクについてこう書き記しています。
これがあまりにも不当な非難であることは明らかで、彼が「二人の父から生れ」る羽目になったのはもちろん彼の罪ではなく、まして彼の母の罪でもなく、ウラジーミルとヤロポルクの権力争いの結果にすぎません。それなのになぜスヴャトポルクが罪を一身に背負わなければならないのか。
しかし聖職者である年代記作者にとっては、「ルーシを洗礼した」ウラジーミルは絶対的に聖なる存在でなくてはならず、若き日の罪の数々は改宗によって全て清められたとされました。一方のスヴャトポルクは、後に列聖された弟ボリスとグレープを殺した大罪人であり、その出生の事情は当然ながら攻撃の材料となったわけです。スヴャトポルクの不運は、彼の「戦った」相手がいずれもキリスト教的観点から見て肯定的人物だったことで、必然的に彼自身は悪魔にそそのかされた呪うべき敵、という役割をあてがわれたのでした。
こうした理由から、一般的にはスヴャトポルクが父からうとまれ、冷遇されたと見られています。しかし少なくともはじめのうちは、父子の対立は決定的ではなかったようです。というのも、スヴャトポルクはその妻としてポーランド公ボレスワフ1世の娘を迎えているからです。対ポーランド関係はルーシの外交の中で重要性を増してきており、その首長の娘を与えたことから、ウラジーミルはスヴャトポルクをある程度は評価していたと言えます。更にスヴャトポルクが公として赴任したトゥーロフはキエフより西北に偏していてポーランドに近く、彼は対西方政策の柱として期待されていた、と考えることもできるでしょう。
しかし間もなくスヴャトポルクはそのポーランドと結び、ボレスワフを引き入れようとするに至りました(恐らくカトリックのポーランドと結んだことも、正教徒である年代記作者たちの不興を買った理由であったと思われます)。スヴャトポルクにとって、自分を「愛していなかった」父へのわだかまりは最後まで捨てきれなかったのでしょう。一方のボレスワフにしてみれば、かつてウラジーミルに奪われた東ガーリチの町々を奪い返すという大目標があり、ついでにカトリックをルーシに広めることも視野に入れていたと思われます。実際、彼の娘と共にドイツ人司祭ラインベルンがスヴャトポルクのもとへ送り込まれており、カトリック式の典礼を行っています。老獪なボレスワフはキエフ公父子に生じていた間隙を利用し、ポーランドの勢力拡大を謀ったのです。
この陰謀は、しかしながらすぐにウラジーミルの知るところとなり、スヴャトポルク夫妻とラインベルンは捕縛されました。ラインベルンは獄中で死に、スヴャトポルクとその妻はウラジーミルの厳しい監視のもとに置かれていました。結局この状態から抜け出すのは、ウラジーミル自身の死まで待つしかなかったわけです。
これ以降、スヴャトポルクがキエフの覇権を求めて執拗に戦い、そして破れ去ったことは本文に書いたとおりです。彼にとって、勝利者となることだけが自らの不幸な幼年時代に復讐する唯一の手段だったのかもしれません。しかしその望みは全て絶たれ、スヴャトポルクは半ば狂気の中で死んでいくことになります。その胸中は「無念」の一語に尽きたでしょう。しかも歴史は、死後に至るまで呪うべき悪人として非難の対象になるという過酷な運命を彼に用意しています。スヴャトポルクの生涯にはあまりにも不条理なものが多く、その苦悩を理解することは誰にもできないのかもしれません。
さて、以上のように異様な経歴を持つスヴャトポルクに対して、弟ボリスはどのような生い立ちを経たのか。実のところ、年代記には彼についての情報があまり載せられておらず、彼の個性について知る手がかりはほとんどありません。ルーシにおける有名な「聖人」にしては拍子抜けするほどパーソナルデータが乏しいのです。
ボリスはウラジーミルの数多い妻妾の一人のブルガリア人女性を母として生まれ、長じてはロストフ公に任じられました。ロストフは北東ルーシの中心都市ですが、この地方はキエフなどの南方に比べて鬱蒼たる森林が多く、元来はフィン系民族の居住地だったところをスラヴ人の植民活動の結果ルーシに組み入れられていました。当時はまだ僻地というに近く、ここを任されたのはボリスがあまり期待されていなかったのか、あるいは開拓の中心として重要な役割を担っていたのか、どちらとも解釈できます。
聖者伝によるとボリスは福音書など聖なる書物に親しみ、信仰心に篤く、また異教徒への洗礼にも積極的であったとのことですが、これは聖者伝にお定まりの「徳行」の描写にすぎません。逆に言えば、この種の形式的な賛美しかできないほどにボリスについての情報は乏しかったとも考えられます。ただし彼の前任のロストフ公はあのヤロスラフで、両者の間に何らかのつながりがあった可能性もありますが、それについては年代記にも聖者伝にも記述がありません。
原初年代記では、1015年からボリス関連の記事はにわかに多くなります。この年ウラジーミルは病に倒れ、折柄ルーシに攻め入ったペチェネグの攻撃にも対処できず、代わりにボリスを派遣しました。つまりボリスはロストフ公でありながらキエフの父のもとにあり、その代理として軍を指揮する力さえ持っていたのです。あるいは自らの死期が近いことを悟ったウラジーミルが、ボリスこそが後継者にふさわしいと内外に示すために対ペチェネグ戦を任せたのかもしれません。もしそうであるなら、ウラジーミルの目論見は全く逆効果であった言えます。
年代記作者は、遠征から帰還する途上でウラジーミルの訃報に接したボリスが「父を思って泣いた。彼は父によって誰よりも愛されていたからである」と書いています。しかし彼につき従っていたウラジーミルの従士団はより現実主義的で、一刻も早くキエフに入り「父の座」につくよう勧めました。ボリスのもとにあった兵力と人望を考えるなら十分可能なことで、むしろそうする方が自然であったとも言えるでしょう。
しかしここでボリスは全く異なる選択をします。「私は自分の長兄に対して手を上げることはできない」と言い、スヴャトポルクに服従する姿勢を示したのです。やがてスヴャトポルクの派遣した暗殺者たちが目前に迫っても彼は動ずることなく、ただ神への祈りを続けながら死を受け入れました。
運命にあらがうことなく自らをむなしうするボリスの態度はキリストその人の受難を想起させ、弟グレープと共に聖人としてロシア人の尊崇を集めるに至りました。実際のところ、彼等は信仰を守るために死んだのではなく(スヴャトポルクは異教徒ではなかった)、「何もしなかったこと」が列聖の理由となるわけで、傍目にはなぜ二人がこれほど敬われるのか理解しがたいほどです。
しかしロシア人にとっては、運命を甘受し自己を犠牲にする「謙虚さ(スミレーニエ)」が信仰の完成と受け取られ、ボリスは身をもってキリストの教えを体現したと考えられたのです。これは「ロシア的な」心性と言われることが多く、ロシア人の宗教的特性を表す例としてしばしば引用されます。勿論、全てが終わった後にヤロスラフがボリス(とグレープ)崇拝を宣伝的に使ったという事情もあるでしょうが、それでもロシアにおいてこの二人の聖者が特別に敬愛されてきたのは事実で、ロシア人の心象風景を考える上で興味深い例と言えます。
しかし年代記はまた事件の別の側面をも伝えています。ボリスに対しキエフ入城を勧めた「父の従士団」は、進言が聞き入れられないと見ると無情にもボリスを見捨て、四散しました。意外にも、と言うべきか、年代記作者はこの場面を伝えるに際して彼等を非難するようなトーンを加えていません。
我々はこの記事によって当時の公と従士団の主従関係を知ることができます。つまり従士達は公に対して無制限・絶対的に忠誠を捧げているわけではなく、その公が従うに値しないと判断すれば(今回のように)離散する可能性もあったのです。父ウラジーミルや祖父スヴャトスラフは何よりもまず戦う人であり、従士団と苦楽を共にする戦友であったのですが、ボリスは従士達の進言を退け戦わずして勝利を敵に譲り渡したわけで、当時の公のあるべき姿からは外れていたのです。「この人、頼むに足らず」と見た従士団が逃げ去ったのも当然でした。ただ下級従士団のみがボリスを見捨てずに残ったのですが、これは身分的により低く、ボリス個人への従属度が強いグループであったと思われます。
ボリスの見せた権力への無関心・争いを好まない態度は、戦いに明け暮れ殺伐とした当時のルーシでは単に「弱さ」としか受け取られなかったのでしょう。その意味ではかつて彼の伯父・ヤロポルクが権力への執着を持たず、結局非業の死を遂げたのと似ています。ボリスの場合もまた、その個性が時代にあわなかった故の悲劇と見るのが適当なように思われます。
グレープについてもまた、年代記の伝える情報は多くはありません。スヴャトポルクに殺されたときはまだ少年であったと見られ、イコンでも髭のない姿で描かれるのが普通です(髭は成年の象徴であった)。
彼が封じられたムーロムはロストフと同じくルーシの北東部にあり、キエフからはるかに離れた地方都市でした。スヴャトポルクはこの田舎町から、しかもとるに足らない若年の弟をわざわざ(病床の父が呼んでいる、と偽の使者を送って)呼び出して殺したわけで、その意図は疑問なしとしません。数多い弟の中で彼を特に危険な競争相手と見る理由があったのでしょうか。
或いはこれがスヴャトポルクの感情の表れだったとも考えられます。「父によって誰よりも愛されていた」ボリスの同母弟であるからにはグレープもまたウラジーミルの秘蔵っ子で、従って父に愛されなかったスヴャトポルクの憎悪の対象だったのかもしれません。そう解釈したくなるほど、グレープ殺害は理不尽で謎の多い事件なのです。
ところで、年代記とは別に伝わる聖人伝では、グレープ殺害の場面で多少異なる描写がなされています。年代記では刺客を前に抵抗しなかったグレープが、この聖人伝では必死に命乞いをし、自分の若さに免じて許してくれるよう懇願をしているのです。従容として死におもむく聖人のイメージから外れる、奇妙な描写とさえ言えるものです。
しかし考えてみれば、少年でしかないグレープが自分を殺すためにやってきた者達の前で動揺するのは(人間としては)当たり前の話で、聖人伝の作者は彼の命乞いについて何らかの情報を得ていたか、またはリアリティを増すためにこのシーンを付け加えたのかもしれません。画一的に見える宗教文学でも、よく見比べてみるとこのように細部で食い違いや補いあう情報が見られ、興味深いものです。
さて、スヴャトポルクに殺されたのは上記の二人だけではありません。キエフに近いドレヴリャーネの地を支配していた別の弟・スヴャトスラフもまた犠牲になっています。スヴャトスラフの母はチェコ人の女性であり、また彼はハンガリーに逃げる途中スヴャトポルクの放った刺客に追いつかれ、殺害されました。
どうやら彼は危険を悟って母の実家であるチェコ方面に逃亡を企て、そして成功しなかったようです。ドレヴリャーネの地という重要な場所を支配していたこと、及び西方とのコネクションを持っていたことでスヴャトポルクから危険視されたと見ていいでしょう。しかし気の毒にも彼は列聖される至らず、ボリスとグレープに比べて知名度もはるかに低いままになっています。「逃げる」という行為が聖人にふさわしくなかったのかもしれませんが、しかしヤロスラフがボリスとグレープの聖化に熱心だったことを考えると、彼とヤロスラフの仲があまり親密でなかったとも考えられます。この辺は諸史料には表れず、ただ想像するしかないのですが。
それにしてもドレヴリャーネの支配者は、ウラジーミルの次兄オレーグから二代に渡って非業の最期を遂げており、滅ぼされたドレヴリャーネ族の怨念を連想したくなるほどです。ただしドレヴリャーネの故地はキエフに近い要地で、その指導者がキエフ権力からライバル視されるのはある意味当然とも言えます。またキエフに最後まで抵抗した土地柄、反キエフ的・遠心的傾向を見せてもおかしくはなく、内戦ともなれば真っ先に狙われたのかもしれません。ともあれ、「ドレヴリャーネ」の名称はこれ以降は見られなくなり、キエフ権力のもとで東スラヴ諸種族が解体されつつあったことを物語っています。
(00.03.27)
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