“ハイC”???・・・オペラ好きじゃなかったら、音楽好きじゃなかったら、多分、一生知らない(知る必要もない)言葉じゃないですか?しかし、オペラ・ファンにとっては魅惑的な言葉であります。
“ハイC”とは・・・二つに解体して・・・ハイ=HIGH (高い)、C=ド(C,D,E,F,G,A,B,Cはド,レ,ミ,ファ,ソ,ラ,シ,ドのこと)ですから、つまり“高いドの音”という意味です。単なる一つの音を意味しているだけです。女声とテノールの音域は、1オクターブの差がありますが、共にト音記号の楽譜に書かれます。ですから、ソプラノやメゾ・ソプラノにも“ハイC”はあります。しかし、オペラで“ハイC”といえば、ソプラノやメゾの音ではなく、テノールの音を指します。テノールの“ハイC”とは、通常、高音の限界、特別意味のある音なのです。
★高音の魅力
人間は高い音に惹かれるそうです。反対に低い音は落ち着かせます。上昇する音階は興奮させ、下降する音階は寂しくなったり悲しくなる。楽器の音色についていえば、同じ金管楽器でもトランペットは溌剌と勇ましい気分になり、ホルンは穏やかな気分になります。誰もが共通して持っている、本能的な感覚です。進化の過程で、私達のDNAに刷り込まれてきたのだと思われます。音楽は、音の高低や違った音色を複雑に組み合わせることにより、私達の感情に働きかけるように出来ています。音楽が好きな人は、これらの音の刺激を感じやすい人といえるかもしれません。
名ソプラノのビルギット・ニルソンは、譜面の音よりも僅かに嬰音(#)気味に歌ったそうです。その結果、声に輝きが増し、鋭く響くというわけです。正確な音感がなくては出来ない高度なテクニックです。
テノールとソプラノは高い声を持っています。興奮させる声なので私達はテノールとソプラノが好きです。しかし、高い声ほど感動が大きいのであれば、メゾ・ソプラノだって男声よりは高いのだから、テノールよりも素敵なんじゃないかというと、さにあらず。そうとばかりはいえません。音楽は心で感じるものですから、物理的に音の振動数や波長の問題ではないのです。テノールの“ハイC”こそが、オペラで最も興奮する音ではないでしょうか?
★テノール
テノールとソプラノの高音の発声には大きな違いがあります。テノールには裏声(ファルセット)がないという点です。時にはわざと裏声を用いることがありますが、強い声が求められるところで裏声で歌うというのは、逃げの手段となってしまいます。
女性の声の場合は、裏声と実声(裏声に対して)の違いは、音色的にはさほど変わりません。ですから、裏声を使って“ハイC”の3度上くらいにまで達することは可能です(ソプラノの場合、テノールの“C音”にあたるのは“Eb音”である。)。実声から裏声への転換を滑らかに行う技術というのは、名歌手になるためには大事になります。しかし、男性の裏声は明らかに違う。ですから、実声で勝負しなければなりません。限界ギリギリの高音を、精一杯声帯を振り絞って“ハイC”に挑むというわけです。こんなわけで、ソプラノとテノールの“ハイC”では、劇的度合いやスリルが全然違うので“ハイC”は“テノールの音”ということになります。
この音がいかに高いかは、男性であれば歌ってみれば実感できます。素人の高音の限界(私の場合はファ#くらい)よりも上が、いよいよテノールらしい響きの音域であり、5度くらい上に“ハイC”がある。この超人的に訓練された超高音は、バリー・ボンズのホームランや、ランディー・ジョンソンの豪速球などの超スーパー・プレーを目のあたりにした時のように、極限に高められた人間の能力の偉大さを感じさせます。
★King Of Hi-C!
ルチアーノ・パヴァロッティは“ハイC”という言葉を広めた立役者かもしれません。デビュー当時のパヴァロッティは、リリコ・レジェーロのたいへん美しい声を持っていて《ファヴォリータ》や《連隊の娘》で聴かせた艶やかな高音は「これぞ、テノールの声」という見事なもので、帝王カラヤンが「パヴァロッティは100年に1人の声だ!」と絶賛したそうです。
たとえ“ハイC”を出せるからといっても、鶏が首を絞められたような声ではいけません。美しくなくてはいけません。パヴァロッティは“ハイC”を美しく響かせることで「キング・オブ・ハイC」と呼ばれていますが、アルフレード・クラウス、ニコライ・ゲッダ、ウィリアム・マッテウッツィ、クリス・メリットなどのように“ハイE”“ハイF”の超高音は持っていません(CDで聴く限り、この音はファルセットで歌っているので)。しかし、ただ単にどこまで高い声が出せるかが優劣ではもちろんありません。パヴァロッティの高音域は誰よりも美しい。
また、マリオ・デル・モナコ、フランコ・コレルリ、ニコラ・マルティヌッチといったドラマティック・テノールの“ハイC”には、パヴァロッティのものとは違った感動があります。バリトンのように太く男性的な声を、テノールの最高音まで引き上げた時の豪快さと興奮は格別なもので、高音を得意とする歌手の“ハイC”を聴く時よりもスリルがあります。
★King Of Hi-C?
ところで、現在もパヴァロッティは“ハイC”の王者なんでしょうか?
3大テノールのプラシド・ドミンゴの“ハイC”が危ういのは昔からですが、現在パヴァロッティの“ハイC”も危機にあります。若かりし頃の軽さと艶がなくなったパヴァロッティは“三点ハ音(ハイC)”がきつくなってきたので、半音下の“二点ロ音”を最高音とすべく、曲全体を半音下げて歌っているようです。「キング・オブ・ハイC」でなければならないパヴァロッティは、曲の最後は高音で締めくくらなければならないからです。多少のアレンジならまだしも、曲全体を半音下げては調が変わってしまいます。そうなれば曲の印象も変わります。私たちがカラオケで機械を操作するような扱いでは作曲者がカワイソウです。作曲家は、一番その場に相応しい調を選んで作曲しているわけですから。
ハイCを避けるための移調は度々行われることがあります。アルフレード・クラウスは、その風習に対し「芸術の真の伝統に結びつく歌唱芸術の存在を拒否してしまっている」と言いました。私の愛する名テノールは、確かに素晴らしい“ハイC”をずっと保っていました。
★欠陥商品
★ロッシーニ
《ウィリアム・テル》から〈私を見捨てないでくれ・・・急いで行こう!〉
★ドニゼッティ
《連隊の娘》から〈ああ!友よ・・・ぼくにとっては何という幸運!〉
★ベルリーニ
《清教徒》から〈いとしい乙女よ、あなたに愛を〉
★ヴェルディ
《トロヴァトーレ》から〈見よ、恐ろしい火を〉
★プッチーニ
《ボエーム》から〈冷たい手を〉
これらのアリアは“ハイC”以上の高音が要求されている魅惑の曲です。
オペラ好きには「テノール大好き!」の人が多い。とにかく“ハイC”が聴きたい。2時間を超える演奏時間の中で、テノールの“ハイC”の瞬間こそを最大のゴチソウとしている。
歌手は、“ハイC好き”の望みをよくわかっていて、“ハイC”を聴かせるためには、時に原曲を無視します。
《連隊の娘》でトニオの歌う〈ぼくにとっては何という幸運!〉では、8つの“ハイC”を聴かせた後、「せっかくだから最後にもう一つ。」ということで、アリアの最後に長い“ハイC"をくっつけます。《トロヴァトーレ》でマンリーコの歌う〈見よ、恐ろしい火を〉でも、最後の音を“ハイC"にすり替えました。
どこかの誰かがそれを始めたら、もう後戻りは出来ません。オリジナルでなかろうとも、今やそれが常識になり、必要不可欠になりました。
今や、これらのアリアを原曲通りに歌う歌手などいません。聴き手も“ハイC”が出てくるのをわかっていて、楽しみにしています。もし、万が一、“ハイC”を避けて低い声で歌われようものなら“肩すかし”どころでは済みません。「なんだ、コレは!こんなCD売りつけやがって!」となります。いくら「これがヴェルディの書いた本当の音楽なんだよ。」と言っても、我々にとっては欠陥商品でしょう。テノール歌手にしても、“ハイC”を避けることは、負けを認めているようなものなので、そんなマネはとても恥ずかしくて出来ないはずです。
そんな演奏があるんだか?ないんだか?“ハイC”のない〈見よ、恐ろしい火を〉を、私は聴いたことがありません。しかし、もし存在するのであれば聴いてみたいものです。興味本位です。私はヴェルディの書いた本当の音楽を知らないわけですから(このアリアの楽譜は見たことあるけど)。“ハイC”付きの方がイイのは聴かなくてもわかります。
〈見よ、恐ろしい火を〉は“ハイC”が出てくることで有名なので、必ずやってくれます。しかし、他のオペラで時々あります。低く下げて歌われることが。そんな時、多少の落胆がないとは言えません。いちいち原曲がどちらなのかはわかりませんが。
★《ウィリアム・テル》はいつ?
「1曲のアリアでオペラは生命を保つ」といわれます。例えば、〈人知れぬ涙〉の《愛の妙薬》、〈衣装をつけろ〉の《道化師》。これらのオペラが「アリア1曲だけ有名で他はクズ。」なんてことは、もちろん思いませんけれど、これらのアリアがオペラの代表曲で、とびきり有名なのは間違いありません。
しかし、優れたアリアがたくさん詰め込まれた《ウィリアム・テル》や《清教徒》の上演には、とんとお目にかかりません。私は観たことありません。それぞれロッシーニとベルリーニの最後の大作であり、傑作として疑いの余地はないのに。
理由は何か?―歌える歌手がいない?・・・
大きな理由の一つだと思います。皮肉なことに、歌唱技術の粋を凝らした魅力的な音楽を書きすぎたために起こってしまった弊害でしょう。上演するのであれば、質の高い演奏をしなければならない。それは難しいことです。
本来、上演され続けることで生命を維持する舞台芸術が、細々とCDやDVDでのみ聴かれているとすれば、それは作品としての生命の危機にさらされているんじゃないでしょうか?《ウィリアム・テル》や《清教徒》は、家庭で楽しむファンのための知られざる名曲という地位に甘んじていていますが・・・仕方ないのかもしれませんね。
【2003.10.5記】