女のいる風景~ためらう女
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女のいる風景~ためらう女

2017-05-26 15:26
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  みゆきの夢は、2匹の黒猫たちと同じステージで踊ることだ。


 と書いたところで、みゆきはキーボードを打つ手を止めた。締め切りもとうにすぎ、いいかげん完成させなくてはならない原稿にやっととりかかったのはいいものの、迷いは消えなかったからだ。

 何年か前に職場で知り合った人から誘われたワークショップで何を話したのか、実のところあまりよく覚えていない。グローバリゼーションをテーマとする会合だったのだから、それに関連することを話したのだとはわかるし、10数年近く考えているジェンダーとセクシュアリティの話をしたはずであることくらいはわかる。なんとなく、「弱者男性」について語ったことも思い出せなくはない。なのに、同じ会合に参加した人びとからはそれなりに好評だった、あの発表を再現するというのは、どうも無理なようだった。

 確かに、思い出さなくても、それに似たことはいくらも書ける。社会の情報化を背景として日本国内における第2次産業から第3次産業への構造転換をともないながらグローバリゼーションが進展し、金融資本が企業経営を恒常的に不安定化させるなかで人件費の継続的削減を余儀なくされた企業は官僚と自民党の力も借りて非正規雇用を増やした結果、それにより貧困化した日本人男性、とくに若い男性のブレッド・ウィナーとしてのジェンダー・アイデンティティが揺らいで80年代半ばからなんとか進んできた男女平等を実現しようとするフェミニズムの動きに対するバックラッシュが起きている、といったことを書くのはそう難しいことではない。あるいは、これも何年か前に依頼されながら、結局書くことを断念したBLの流行について、それが男性性をこの社会における過剰とみなし、現在とはべつの何かを創造するべくnから引かれる1とする、女性たちによる労働運動、正確には再生産労働運動、のひとつであり、「おひとりさま」を自ら選択するフェミニストのやっていることがストライキにあたり、規範としてのジェンダーを壊乱しようとするセクシュアル・マイノリティーのふるまいがラッダイトにあたると考えられるなら、いわゆる腐女子のやっていることはサボタージュだ、といったことも作品の細部にふれながら、書けないことはない。さらにあるいは、とある動画サイトでつい最近起きたばかりの出来事を例として、認知資本主義が進行するなかで小作人となった若い男性たちの不毛な内戦について書くこともできなくはないだろう。

 実際、みゆきも最初はそうしたことを書こうとしてキーボードに向かったのだ。産業資本主義から認知資本主義への変化がそれを唱える者が強調するほどの大転換かどうかの判断は措くとして、また、非物質的労働という言葉を受け入れるかどうかも別として、情報化を通じて、資本による価値の創造-実現の基軸が共(コムーネ)の「レント」を通じた収奪と知の商品への変容であるような蓄積システムができあがっている、ということは理解できる。その蓄積システムが自己に対する承認の欲望の機制をも巻き込みながら稼働していることは、動画投稿サイトを見ればよくわかる。「共産主義」という言葉に対しては嫌悪感や違和感をもつ若い人びとが、mixiやニコニコ動画のコミュニティについては「コミュ」と呼び、気軽にそれを利用しながらつながりをつくっているのも、それと無関係ではないだろう。

 だが、そうしたことを論文として書こうとすると、みゆきの手は止まってしまう。しかるべき参考文献を挙げ、注をつけながら論文を書くといったことをやったことがないわけではない。引用文献を示し、文章を読む者と何事かを共有する、といった作法も知らぬわけではない。それでも、そのようなかたちで書いていいのかどうか、そこにためらいがある。

 その思いが強まったのは、とあるブログにあった次のような文章を読んだことがきっかけだった。そのブログを運営している國分功一郎という名のその「男」を彼女はそれほど知らないわけでもない。現在は疎遠になっているが、同じ大学の後輩でもある彼に呼ばれて勉強会に参加したことがきっかけで知り合い、共通の知人も少なからずいる。彼のことを「男の子」と呼んでからかっていたのも昔の話で、彼はどうやら立派な「男」になったようだ。その彼のブログのとある日のエントリに彼女には理解不可能なことが書かれていた。


 筆者の個人的経験をここに記すことをお許しいただきたい。筆者は高校生の時分より

 中島みゆきの歌を好んで聴いていたが、だんだんそこから離れていって数年がたったあ

 るとき、NHK番組「プロジェクトX」に使われた「地上の星」という曲を聴いて、強

 烈な不愉快さを感じたことがあった。自分ではそれが何だったのかがよく分からず、も

 しかしたら、自分がかつて聞いていたものもこれと同じ不愉快さを今の自分には催させ

 るのだろうかとも考えた。もやもやとした感じを持ち続けたまま時間が過ぎた。

 その不愉快さの本性が分かったのは、高橋哲哉『靖国問題』を読んだ時である。あの曲

 の不愉快さとは何か? それは、あの曲が、疲れた者への慰めを超えた、リクルートの

 呼びかけであったからに他ならない。誰にも注目されずに仕事をしていた「地上の星」

 たちがこんなにいます。あなたも「地上の星」になりなさい。そうです、企業戦士とし

 て喜んで死になさい(経済戦争における兵士のリクルート)。

 実際、あの番組で問われたのは、仕事がどれほど大変であったかという点だけであった。

 仕事の内容は問われない。おそらく、戦場での大殺戮・大虐殺の苦労話を取り上げても

 番組は成立したはずである(あの番組のパロディーがたくさん作られてネット上で公開

 されていたが、パロディーが簡単だったは仕事の内容は問わないというあの番組の構造

 に起因している)。

 定年退職後の男性たちが合唱団をつくってこの曲を歌っているという。こんなにもおぞ

 ましくも悲しい話があるだろうか。ラ・ボエシーの「自発的隷属」の問題といってもい

 いし、ドゥルーズの「なぜ人々は隷属こそが自由であるかのように自身の隷属をもとめ

 て闘うのだろう?」という問いを挙げてもよい。あの番組を見て多くの中高年男性が涙

 していたというが、筆者が涙したのは「地上の星」を歌っている男声合唱団を見たとき

 だった。


なるほど、『プロジェクトX』という番組が「男」のいうようなものとして機能したということは、そう言いたければ言える。そこに怒りを覚えるのも好きにすればいいと思う。だが、みゆきにわからないのは、「あの曲が、疲れた者への慰めを超えた、リクルートの呼びかけであったからに他ならない。誰にも注目されずに仕事をしていた『地上の星』たちがこんなにいます。あなたも『地上の星』になりなさい。そうです、企業戦士として喜んで死になさい(経済戦争における兵士のリクルート)」という部分だ。『地上の星』をそのように聴いた耳とそのように理解した目があった、ということはわかる。しかし、『地上の星』の歌詞とその番組内容には、看過すべきでない齟齬がある。「あの曲」それ自体を聴きもしない耳と見もしない目には、一生わからない齟齬がそこにある。番組のレギュラーの回で使用されていたワンコーラス目の歌詞はこうだ。


 風の中のすばる

 砂の中の銀河

 みんな何処へ行った 見送られることもなく

 草原のペガサス

 街角のヴィーナス

 みんな何処へ行った 見守られることもなく


第1回の黒部ダム建設の回をはじめとして、番組で扱われるのは昭和の男性正社員が主であり、中島みゆきのコンサートでの「証言」によれば、彼女は番組のコンセプトを聞き、第1回のパイロット版を見たうえで、曲を作ったのだという。だとしたら、歌詞には「男性正社員」を彷彿とさせる形象が用いられてもいいはずだ。だが、実際に用いられたのは、「すばる」「銀河」「ペガサス」「ヴィーナス」といった言葉で、そのどれにも「男性正社員」を直接イメージさせるものはない。「すばる」とは神話によればプレアデスの娘たちのことであり、「銀河」、ミルキーウェイは女神ヘラの乳からできたものだと神話で言われている。「ペガサス」は4本足の神獣であり、「四つ」という言葉がこの日本において誰に対しどのように用いられてきたかを思い出させもする。「ヴィーナス」は美の女神であり、もちろん「男性正社員」の形象にはなりようがない。みゆきにわからないのは、この歌詞を見て、この歌詞を聴いて、どうしてその形象になれ、とリクルートされている、と受け取れるのか、ということだ。その疑問は滅多に番組では流れなかった、曲のツーコーラス目の歌詞を見るとさらに深まる。


 崖の上のジュピター

 水底のシリウス

 みんな何処へ行った 見守られることもなく


おそらく「男」の耳と目には、これは立派に戦って死んでいった戦士たちをたたえる歌詞に聴こえるのだろうし、見えるのだろう。なるほど、危険な場所で仕事した英雄的な男性正社員をイメージすることはできなくはない。しかし、「女」の耳と目には、滅びつつあるブレッド・ウィナーとしての男性へのレクイエムに聴こえるし、見える。別に「崖の上」と「水底」を仕事の場所としてとらえる必要はないのだから。居場所ととらえても何のさしつかえもないはずだ。出世をきわめた男性正社員をイメージさせるローマ神話における最高男神も、「社畜」を思わせるオリオンの猟犬も、いる場所はいつ落ちるともしれぬ「崖の上」であり、息をすることもままならぬ「水底」である。ひるがえって、ワンコーラス目の「銀河」がどこにあったのかを思い出せば「砂の中」であって、役割としての子育てを一手に引き受ける存在としての「妻」はもはやいらない、ということとも受け取れる。一見、「企業戦士」を称える歌であるかのように聴かせながら、雇用差別を受けた者たちへの哀悼と、危機に瀕した男性ブレッド・ウィナーへのレクイエムを響かせる、中島みゆきらしい「一筋縄ではいかない」歌として『地上の星』を聴く「女」の耳には、『ヘッドライト・テールライト』は、番組で扱われたような過去とは無縁の平等をつくりだそうとしている者へのエールのように響く。「称える歌は 英雄のために過ぎても」。「女」を「英雄」とは言わない。称えられたのは「女」ではなく、そして「英雄」として称えられることを望む無邪気な「男の子」やさもしい「男」ばかりがこの世にいるわけではない。そうした「女」をはじめとする「男」以外のありとあらゆる存在へのエールとして、『ヘッドライト・テールライト』を聴くことは、「男」の耳には思いもよらないことなのだろう。「定年退職後の男性たちが合唱団をつくってこの曲を歌っている」光景を見て、嗤っていた「女」は、「男」にとっては存在しない、いや、存在してほしくないものなのだろうか。クレオーンにとってのアンティゴネーのように。

 「男」は哲学研究者であるのであれば、そして、「ラ・ボエシーの『自発的隷属』」の問題」ないしはドゥルーズ(が引用するスピノザ)の「なぜ人々は隷属こそが自由であるかのように自身の隷属をもとめて闘うのだろう?」という問いを本気で引き受けるというのであれば、なすべきことは、みゆきを「悪しき魔女」として葬り去ることではなく、「どうして自分を含めひとは『地上の星』をそのように聴く耳と見る目しかもてず、そして書くことをためらう手をもちえないのか?」と問うことではないだろうかと、みゆきは思うが、それは今の「男」に言っても詮無いことのように思われる。

 というのは、「男」の近著である『暇と退屈の倫理学』を立ち読みしたときに、みゆきは、もはや「男」に彼女の声はとどかず、仮に届いたとしても、アンティゴネーの訴えに耳を貸さぬクレオーンの耳と同じ「耳」しか「男」にはないだろう、と思い知らされたからだ。その本の「はじめに」に、ブログにあったのと似たようなことが書かれていた。だが、何に、あるいは、誰に配慮したのか、番組名と『地上の星』という曲名は伏せられ、「中島みゆき」という固有名詞も消去されて「歌い手」とされている。そこにいるのは「女」が見せた抵抗の身振りをあざ笑う「男」の姿でしかなかった。読む気をなくしたので、その先を読んでいない「女」にわかることは、その「倫理学」が「女」の喜びとは無縁のものだろうということだけだった。


 「悪の凡庸さ」は書くことにもありはしないか


と、みゆきは最初の一文に続けて書き、そして、しばし考えたあと、その一文を削除し、とりあえず、ファイルを上書き保存した。
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