第54回東北社会学会大会@東北福祉大学

自由報告�

2007年7月21

 

A.ストラウスの相互行為論における「相互行為」について

――「多元的相互行為論」再考――

 

山口健一

東北大学大学院情報科学研究科

博士後期課程3

Mail: yamaken@sp.is.tohoku.ac.jp

 

 

1.序論

 

1-1.はじめに

 質的研究というと、インタビュー・データやヒューマン・ドキュメントによって対象者の意味世界へと接近する方法がすぐに思い浮かぶ。確かに、シンボリック相互行為論(以下SIとも表記)は――例えばH・ブルーマー(1986[1969]1991:155-163)が対象者の意味世界への接近におけるそれらの重視性を指摘したように――この接近法を重要視している。では「相互行為」分析についてはどうだろうか。例えば、会話分析を通して〈いま、ここ〉で進行する相互行為秩序を描き出すエスノメソドロジーが容易に思い浮かぶだろう。しかしその一方で、日本においてSIは再評価が進みつつあるものの、「相互行為」そのものの分析視角について十分に考察されていないように思われる[1]。果たして、シンボリック相互行為論と呼ばれる分析視角において「相互行為」はどのように捉えられているのだろうか。報告者にとって、この背後には「進行する相互行為(ongoing interaction)」分析の有用な視角としてSIを提示するという狙いがある。またこの点を考察することは、その名前を有する理論・調査方法論にとってまさにそのアイデンティティを問い直す作業といっても過言ではないだろう。

このような問題関心のもと、本報告では、A.ストラウスの相互行為論における「相互行為」の論理について描き出そうと試みる。なぜなら、シンボリック相互行為論の中でもA.ストラウスの相互行為論は――例えばB.グレイザー&ストラウス(1964)における「自覚文脈(awareness contexts)」のように――相互行為分析において有益な研究を行ったからだ。

 

1-2.先行研究――ブルーマーの相互行為観とストラウスの相互行為観

 本報告の議論をより明確に示すために、先行研究において提示されている、H.ブルーマーにおける相互行為観とストラウスにおける相互行為観について概観しよう。なお、前者は桑原(2000)と那須(1995)、後者は藤沢(1989)の議論に依拠している。

 ブルーマーは「社会的相互行為(social interaction)」を、「シンボリックな相互行為(symbolic interaction)」と「非シンボリックな相互行為(non-symbolic interaction)」の二つに区分した。「シンボリックな相互行為」とは、行為者たちが、互いに自己相互作用を通して、対象を自分自身に「表示(indicate)」し、それを「解釈(interpret)」して行為していく過程である(桑原2000:178;那須1995:90)。一方「非シンボリックな相互行為」とは、個々人が他者の行為を解釈することなく(すなわち自己相互作用を行わず)、互いに相手に対して反応する過程である(桑原2000:198;那須1995:90)。ブルーマーは二つのうち「シンボリックな相互行為」に着目し、「非シンボリックな相互行為」については正面から扱うことはなかった(那須1995:90)。そしてブルーマーにおいて、「シンボリックな相互行為」が連結(joint)していくことにより形成され続けていくのが社会であった(桑原2000:200;那須1995:90-2)

ブルーマーにおいて「シンボリックな相互行為」とは、「有意味シンボル」を媒介し、行為者たちが互いに解釈過程を通した相互行為である(桑原2000:198;那須1995:93-4)。「有意味シンボル」とは、「たとえば音声言語が相手に聞こえるのと同様に自分にも聞こえるように――ある動作や身振りが、相手に起こすのと同様の反応をその当の行為者にも起こす」(那須1995:94)ものである。ブルーマーにおいてこの「有意味シンボル」は「共通の定義」と同義であるという(桑原2000:198;那須1995:94)。両者はここにブルーマーにおける論理の矛盾を指摘する。那須にとってそれは「共通の定義」を媒介とした相互行為の安定の側面(=いまある社会)と行為者たちの解釈過程を通した変容の側面(=いまなりつつある社会)の矛盾であり(那須1995:94-7)、桑原にとってそれは「共通の定義」が、それ自体「共通の定義」を媒介して成立する「シンボリックな相互行為」を通して形成されるという矛盾である(桑原2000:198)。この問題に対し、那須はその答えをA.シュッツの現象学(的社会学)に求める一方、桑原は「シンボリックな相互行為」を(1)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互行為」と、(2)「有意味シンボルの使用」と同義としての「シンボリックな相互行為」とに区分し、社会変容の可能性を「ブラック・ボックス」として現れる他者に求めた(桑原2000:198;Kuwabara and Yamaguchi 2007:6-7)

 ストラウスの相互行為論は「多元的相互行為論」と呼ばれている(藤沢1989)。藤沢によれば、ストラウスは「相互作用の中で生じる有意味シンボルや、それを用いての意味解釈を議論の中心におき」(藤沢1989:80)、認識の範囲は言語による命名の範囲に依存するというデューイの考えを受けて、「名づけ(naming)」を世界を認識する人間の中心的行為とした(藤沢1989:80)。この考えに関連して、ストラウスは、過度に単純化された役割遂行モデルを批判し、相互行為の複雑さ、流動的で発展的な過程を強調する一方、精神医学者が相互行為の構造的側面を見落としていることを指摘し、構造概念の重要性を強調した(藤沢1989:82)。ストラウスは相互行為の複雑さ、流動的で発展的な側面と、構造的側面の双方を踏まえ、人びとは、その基礎に多元的構造的基盤をもった「多元的に構造化された相互行為(multi-structured interaction)」を行う。「その多元的な構造の各々は、相互作用を行っている人々の名づけのもとに、表面に浮かびあがったり、沈下したりする」(藤沢1989:83)ものであり、多元的であるがゆえに相互行為に流動性の余地がある(藤沢1989:82-3)。「多元的に構造化された相互行為」において人びとは時には意識的に、またあるときには無意識的に、複数の地位やアイデンティティの選択を行う複雑で流動的なものである(藤沢1989:83)。これが「多元的に構造化された過程(multi-structured process)」である。

 

1-3.本報告の課題

 ブルーマーに関する先行研究が指摘する矛盾とは次のようなものであった。「共通の定義」(=「共有された」シンボルないし有意味シンボル)によって成立する「シンボリックな相互行為」において、「共通の定義」がいかに形成されていくのか(すなわち社会がいかに変容していくのか)。この「シンボリックな相互行為」における「共有された」シンボルの形成に関する問題は、ストラウスの相互行為論においても一考の価値があると思われる。

藤沢はストラウスの相互行為論の構造的側面と複雑さ・流動性の側面の双方を描き出した。すなわち、相互行為に現れる地位やアイデンティティの多元性によって、またそれらの「浮き沈み」によって、相互行為が流動していくことを示した。一見すると藤沢はブルーマーにおける矛盾に対して解答を提示しているように思われる。しかし、相互行為において複数の地位やアイデンティティが「浮き沈み」すること、また流動していくこととはいかなることか、という「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)」の論理の内実を示していない。

 そこで本報告では、(1)まずストラウスの最後の理論的著作である『行為の持続的変容』(1993)における(相互)行為観について見ていき、(2)ブルーマーのいうところの「シンボリックな相互行為」と「非シンボリックな相互行為」の区分がストラウスにおいてどのように捉えられているのかを確認する。(3)その後「相互行為」の範囲と累積的・進展的特性について述べる。(4)それらを踏まえ、「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)」の論理を描き出す。そして(5)「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)」に「自覚文脈」を位置づけ、(6)「多元的相互行為論」の多元性と流動性の特質を明らかにする。また最後に、ストラウスの「多元的相互行為論」の現代的意義を指摘して報告を閉じることにしたい。

 

2.本論

 

2-1.ストラウス相互行為論における基礎的諸用語

 まずストラウスの相互行為論における基礎的な用語について確認しておこう。

ストラウスにおいてパーソナルな行為者とは、諸状況における「一般的な枠組み」を遂行する受動的な「役割演技者」ではない。パーソナルな行為者は自分自身の経験に基づいて行為し、その意味において個々別々の行為を行う。パーソナルな行為者の行為をストラウスは名づけと呼ぶ。名づけとは諸状況における諸対象を何らかの種類のものとして分類し、評価し、その対象への行為の方向性を定め、そのようなものとして予期することである(=秩序化)。それは推測的な特徴を有し、継続的に変化する可能性をもつ。とはいえパーソナルな行為者は文字通り「自由」に名づけるのではなく、パーソナルな行為者は集団の成員によって「共有された」用語法(=名づけ方)に基づいて行為する(山口2005)

パーソナルな行為者がある集団の成員として行為するためには、その集団の成員である「重要な他者(significant other)」によってその行為が確証されなくてはならない。さもなければその行為者は重要な他者と同じ集団の成員にはならないし、何よりもその集団の活動に参加できない。これは、パーソナルな行為者の行為は重要な他者との関係に左右されることを意味している(山口2006:112-114)

ストラウスにおける集団とは、パーソナルな行為者たちの相互行為においてシンボル(あるいは用語法)が「共有された」範囲である。二人以上が「共有」すれば集団となり、シンボルはいかなるものでもありうる。このように考えると多くの人びとが参加する、拡散し、複雑で抽象的な集団化が相互行為において現れる。これが社会的世界である(山口2006:114)

ストラウスにおいてアイデンティティとは、相互行為において人びとが人間(自己と他者を含む)を名づけるときの名前である。諸状況においてパーソナルな行為者が行為するとき,その行為者はその行為が示す集合的アイデンティティを有する.また、その行為者が有する過去から現在、そして未来にわたって持続する自分自身についての名前がパーソナルなアイデンティティである(山口2007)

 

2-2.「相互行為」の特質――相互行為の持続期間と予見不可能性

 まず最初に、ストラウスの行為観について見ていこう。ストラウスは『行為の継続的変容』(1993)において、人びとの行為を相互行為に埋め込まれたものとして考えた(Strauss1993:24-5)。これは人が一人で行う行為であれ、複数の人たちが行う(相互)行為であれ、名づけとして考えることである。

ストラウスによれば、単一の目的(end)とそれに伴う手段(means)の図式によって示される(相互)行為観は、行為や相互行為の理解にとって不適切であるという(Strauss1993:33)。そうではなくストラウスにおいて、その(相互)行為のコースとは、熟考に値する曖昧さないし不確実性が含まれ、そのコースにおいて複雑に変化していく目標(goals)‐手段図式である(Strauss1993:34-5)。すなわち「相互行為は常にどこかへ進む傾向があるが、相互行為者たち(interactants)にとって常に確かなものとして知られているわけではない」(Glaser and Strauss 1964:674)。相互行為のコースには、新たな発見に伴う当初の目標の変更のみならず、「航路から外れる」演技や、集合的笑いの事例という実際上統制されていない高まり、無自覚的な容認、過去の記憶への漂流や遊びがいのある空想のような自己相互行為も関連する(Strauss1993:35-6)

 ストラウスによればこのような「相互行為」には持続期間(duration)がある。ある一つの(相互)行為は短いかもしれないし、別の(相互)行為は長いかもしれない。この(相互)行為の時間的なコースは、偶然性や企画や計画の変化、目標と関連しており、局面や段階に分類可能な「連続(sequences)」として説明できる(Strauss1993:32-3)

また、相互行為のコースの間には「偶然性(contingency)」が生じる(Strauss1993:36)。偶然性には二つの主要な部類があるという。一つは、その(相互)行為に直接的であれ間接的であれ影響を与える経済的、政治的、文化的、組織的、生理学的(例えば病気)、地質学的(例えば地震)、あるいは気候的(例えば雨)といった、(相互)行為のコースにとって「外的なもの」である。もう一つは、その構成要素である諸(相互)行為が数多くの企図しない帰結を導く、その(相互)行為のコース自体である(Strauss1993:36-7)。本報告では後者に着目する。

 すなわち、ストラウスにおいて「相互行為」とは、持続期間があり、その間で生じる「偶然性」によって、目標が変化していくものである。そしてその「相互行為」の進む先は――それが終わるまで――相互行為者にとって(また観察者にとっても)確かなものではない。

 では、このような特質をもつ「相互行為」の論理はどのようなものなのだろうか。「関与(involvement)」に着目して、「相互行為」の範囲とその累積的、進展的特性について見ていきたい。

 

2-3.自覚的/無自覚的な行為と「相互行為」

 その前にストラウスにおける自覚的/無自覚的な行為について定義しておこう。なぜならこの区分が、ストラウスの相互行為論における「相互行為」の論理を理解する上で極めて重要だからだ。とはいえ、筆者の見るところ、後述する意識的(conscious)、意図的(witting)、自覚(awareness)といった用語はストラウスにおいて必ずしも明確に整理されてはいないようだ。したがって、本報告で行う自覚的/無自覚的な行為の区分は報告者による恣意的な定義である。

ストラウスは、パーソナルな行為者が何らかの事柄に無自覚であることの説明を知識の抑圧的根拠のみに求めることには反対であった(M&M:602001:75)[2]。ストラウスはそれ以外に三つの場合を挙げる。第一に、何らかの対象(自己や他者、行為を含む)が集団の用語法として定義されていないがゆえに、パーソナルな行為者がそれをシンボル的に「見る」ことができない場合。第二に、パーソナルな行為者が別の対象に注意を向けているか、無意識的であるため、ある対象に気づいていない場合。そして第三に、パーソナルな行為者が、ある対象がその状況と無関連なため重要ではないと捉えている場合である(M&M:60=2001:75)

 翻れば、自覚とは次のように考えられる。ストラウスにおいて自覚とはシンボル的な事柄である。「重要な変化の自覚はシンボル的な事柄である」(M&M:147=180)。自覚しているときパーソナルな行為者はシンボル的に何らかの対象を「見る」ことができる。パーソナルな行為者が自覚して行為するとき、その行為者はその対象に注意を向け、意識的(あるいは意図的)に行為している[3]

以上のことから次のように定義できる。何らかの状況における自覚的な行為とは、パーソナルな行為者がその行為をシンボル的に自覚しており、意図的になされる[4]。これはパーソナルな行為者がその状況において意図的に行う名づけである。そのためその行為者は、そのシンボルが示す集団に対するメンバーシップに気づいている。一方、何らかの状況における無自覚的な行為とは、パーソナルな行為者がその行為に対してシンボル的に無自覚である。そのためその行為者は、その行為に気づいていないか(=非意図的)、気づいていたとしても重要と見なしていない(=意図的だがその状況と無関連)[5]

 したがって次のようにいうことができるだろう。自己相互行為を通して「表示」と「解釈」を行為者たちが互いに行う「シンボリックな相互行為」とは、ストラウスにおいて自覚的な(相互)行為に相当すると考えられる。なぜならパーソナルな行為者が行う自己相互行為(すなわち再帰的行為)とは自覚的な行為だからだ[6]。とすれば反対に、無自覚的な(相互)行為は、「非シンボリックな相互行為」に含まれると考えることができる。

「相互行為」には自覚的な行為と無自覚的な行為の双方が現れる。ストラウスによればパーソナルな行為者たちは、それぞれが参加する諸状況の相互行為において、自覚的にも無自覚的にも行為し反応しうるという。行為者AとBによる相互行為を考えてみよう(M&M:60-1=2001:75-6)()Aは、Bの自覚的な行為に対して、自覚的に反応する。()Aは、Bの無自覚的な行為に対して、自覚的に反応する。()Aは、Bの自覚的な行為に対して、無自覚的に反応する。()Aは、Bの無自覚的な行為に対して、無自覚的に反応する。なおAとBが入れ替わることにより、このケースは二倍になる。さらには、その行為の時点においては無自覚だが、後に自覚的になる場合もありうる。このことが意味するのは、ストラウスは「相互行為」を「非シンボリックな相互行為」と「シンボリックな相互行為」の双方が現れる複雑なものと考えていることである[7]

 

2-4.「相互行為」の空間的範囲

次に、ストラウスの相互行為論における「相互行為」の範囲について述べよう。

 ストラウスの相互行為論に影響を与えた理論の一つは、E.ゴフマンの『行為と演技』(19591995)であった(Denzin 1994)[8]。本報告では、「相互行為」の範囲を示す限りにおいてその理論を用いることにしたい。ストラウスにおいて「相互行為」とは対面的状況における相互行為(face-to-face interaction)のことを指していた(M&M:46=2001:57)。また「相互行為」とはパーソナルな行為者たちが「関与する(involve)」範囲である。「相互行為は、単に二人の人だけではなく、第三の人もしくはそれ以上の人びとが関与することがある」(Glaser and Strauss1964:670)。これはゴフマン(1959)の言葉でいえば他者の情報を獲得・活用しようとする「他者の現前(the presence of others)」の範囲である。「個人が他者の現前(the presence of others)に至ると、彼についての情報を獲得しようとするか、以前に占有した情報を活用しようとする」(Goffman1959:1=1995:1)。この範囲内では、パーソナルな行為者による行為は、互いに相手の反応に影響を与える。「個人が他者の前に現れると、彼の行為は他者がおかれることになる状況の定義に影響を与える」(Goffman1959:6=1995:7)。そしてこのような範囲内では、パーソナルな行為者たちは相手に対して自覚的であれ無自覚的であれ行為を表出せざるを得ない、すなわち自己呈示を自覚的であれ無自覚的であれ行うことになる(Goffman1959:2-4=1995:2-5)[9]。つまり、ストラウスにおいて「相互行為」の範囲とは、対面的状況においてパーソナルな行為者たちの行為が不可避的に互いに影響を与える「関与」の範囲、別言すれば「他者の現前」において自覚的であれ無自覚的であれ諸個人が自己呈示を行う範囲である。

 この「他者の現前」ないし対面的状況における「関与」の範囲内において、パーソナルな行為者たちは互いに次のようなアイデンティティの査定を行う。すなわち(1)その状況における全般的な他者のアイデンティティ、(2)他者の目に映った他者自身のアイデンティティ、(3)他者の目に映った自分自身のアイデンティティである(M&M:612001:76)。これによりパーソナルな行為者はその状況において自分の行為を選択することができる[10]。自覚的/無自覚的な行為を踏まえてこのことを言えば、「他者の現前」ないし対面的状況における「関与」の範囲内において、パーソナルな行為者たちは自覚的にも無自覚的にも行為し反応するため、この査定の組み合わせはさらに複雑なものとなる。なお、この査定は集合的アイデンティティのみならず、パーソナルなアイデンティティについてもなされる。

 

2-5.「相互行為」の累積的、発展的特性――「インターパーソナルなプロセス」

 ストラウスにおいて「相互行為」とはパーソナルな行為者たちによって行われるものであった。それは別言すれば「相互行為」には「インターパーソナルなプロセス」が含まれるということである。「インターパーソナルなプロセス」とは、「相互行為」の空間的範囲内において、パーソナルな行為者たちが互いにパーソナルなアイデンティティを表象するプロセスである。このプロセスにおいてパーソナルな行為者たちは互いの「関与」を深めていく、すなわちその行為者たちの相互行為プロセス(別言すればその行為者たちの「関係」)は累積的に進展していく(M&M:64-5=2001:80)。例えば、ある人たちが恋に落ちていくプロセスや友だちになるプロセスにおいて、最初は出会い、次にいろいろなことを話し、仲良くなり、そして付き合い始めるといった具合に。逆に失恋するプロセスや敵になるプロセスも同様である。そしてこのような事例のみならず、ある人と食料品店の店員との相互行為のような場合であれ――例えば「行きつけ」の店になるといった具合に――不可避的に「関与」は進展していく。

 さて、ここまでは「相互行為」の空間的範囲と累積的・進展的特性について見てきた。パーソナルな行為者たちによる相互行為は、「他者の現前」によってその空間的範囲が定められ、「インターパーソナルなプロセス」によってその累積的・進展的な方向性が作られる。では、ストラウスはこのような「相互行為」を「多元的相互行為論」(藤沢1989)においてどのように位置づけたのであろうか。

 

2-6.「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)

 ストラウスは「相互行為が構造化されたプロセスとインターパーソナルなプロセスの双方であることを強調すべきだ」(M&M:77=2001:95、傍点は報告者)という[11]。「構造化されたプロセス」とは、諸状況においてパーソナルな行為者たちが社会的諸世界を互いに表象する相互行為プロセスである。またこのときパーソナルな行為者はその諸世界が示す集合的アイデンティティを有している。ここまで述べられてきたことを踏まえる次のようにいえる。すなわちストラウスは「多元的相互行為論」の展開によって、対面的状況における「関与」によってその範囲が定められ「インターパーソナルなプロセス」によって進展していく「相互行為」において、パーソナルな行為者たちが表象する社会的世界を「構造化」して捉える視角を提供したのである。またこのことから、社会的世界の把握の前提には「相互行為」があり、「相互行為」には社会的世界が現れるといった具合に双方を切り離すことはできないが、社会的世界と「相互行為」は別々の論理を有するといえる[12]

 そのため、ストラウスにおいて「相互行為」と社会的世界は必ずしも同一の拡がりを見せるわけではない。別言すればパーソナルな行為者たちが「相互行為」に参加しているからといって、彼ら/彼女らが共通の社会的世界(=「有意味シンボル」ないし「共通の定義」)自覚的に参加している(=「シンボリックな相互行為」)わけではない。例えば、病院の診察室において子どもと大人が相互行為する場合、椅子に座り聴診器を子どもにあてる大人は「診察」という行為を行い医師という集合的アイデンティティを表象する。一方で子どもはゲームとして行為しており、患者として振舞っているわけではない。また、このような互いに自覚的な相互行為の場合のみならず、互いに無自覚的に振舞い自覚的に反応する場合もある。つまり「相互行為」には、多様な社会的諸世界が現れるわけである(山口2006)

 ここで注意して欲しいのは、観察者の目から見れば、パーソナルな行為者たちが行う「相互行為」にはその行為者たちの自覚的/無自覚的な行為の双方が現れ、その双方は何らかの社会的世界を表象することである。すなわち自覚的な行為は、その状況ないしパーソナルなアイデンティティに関連する社会的世界を表象し、無自覚的な行為はパーソナルな行為者が自分自身の経歴において属したいずれかの社会的世界を表象する(山口2007b)

 したがって、「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)」は次のように考えることができるだろう。ある状況における「相互行為」において、その状況に関連する社会的諸世界は、パーソナルな行為者たちにとって互いに自覚的なものであり、それは「表面に浮かび上がっている」[13]。またパーソナルなアイデンティティに関連する社会的世界も、その状況に持ち込まれ、互いに自覚的に反応する場合「表面に浮かび上がる」。一方、状況やパーソナルなアイデンティティに関連しない社会的世界は――「相互行為」には現れうるものの――「沈んでいる」わけである。そして無自覚的な行為に対してパーソナルな行為者たちが自覚的に反応するとき、その無自覚的な行為が示す社会的世界は「表面に浮かび上がる」。つまり、社会的諸世界は「相互行為」において現れるがゆえに不可避的に流動性をもつ。別言すれば社会的諸世界が現れる「相互行為」は「多元的に構造化された過程」を辿るのである[14]。そのため、次のような場合が生じることになる。ある人(たち)が「他人に知られたくない(=自覚されたくない)」事柄を有するとき、その人(たち)は、「相互行為」において自分(たち)の行為を慎重にコントロールしなくてはならない。さもなければその事柄が「表面に浮かび上がって」しまうからだ。パーソナルなアイデンティティに関連する社会的世界(例えばエスニシティ)のパッシングや、ガン患者への告知問題などはこの例である。

 

2-7.自覚文脈と「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)

 このように考えると、自覚文脈を「多元的相互行為論」に位置づけることができる。ストラウスによれば「自覚文脈という用語によって私たちは、ある状況下において、それぞれの相互行為者が他者の目に映った自分自身のアイデンティティと他者のアイデンティティを知ることの全体の組み合わせを意味する」(Glaser and Strauss1964:670)という。すなわち、「相互行為」の範囲内においてパーソナルな行為者たちが行うアイデンティティの査定の内、(1)他者のアイデンティティと(2)他者の目に映った自分自身のアイデンティティについての全体の組み合わせが自覚文脈である[15]。例えばグレイザー&ストラウス(1965)は、その概念を死にゆく患者との間でなされる看護士、医師、家族の相互行為において用いたが、このような事例に限られるわけではない。ストラウスによれば、「自覚文脈のより一般的な定義は、特殊な人びとや諸集団、諸組織、コミュニティあるいは国民(nations)がある特殊な論題について知っていることの全体の組み合わせ」(Glaser and Strauss 1964:669)である。すなわち、いかなる論題や事柄であれ、自覚文脈の焦点になりうる[16]

ストラウスは全体の組み合わせの中でも四つの自覚文脈(オープン、疑惑、偽り、閉鎖)に焦点を当てた。本報告ではその中でもオープン自覚文脈と閉鎖自覚文脈をとりあげたい。

オープン自覚文脈(an open awareness context)とは、「相互行為」の参加者たちが(1)(2)の双方を互いに自覚しているときに通用する。このとき「相互行為」の参加者たちは、互いの行為が相手にもたらす反応について自覚している。すなわち彼ら/彼女らは「相互行為」において共通の社会的世界に参加しており、互いに自覚的にその世界の「調整された活動」ないし「調律(articulation)(Strauss 1993:40)の過程に参加できる[17]。例えば末期ガンであることを死にゆく患者と看護士の双方が知っており、かつ互いに知っていることを知っている場合。このとき患者と看護士は、「よい死に方」と看護について「調整された活動」を構築する(ストラウスの言葉でいえば「調律する」)ことができる(Glaser and Strauss 1965=1988:81-109)

閉鎖自覚文脈(a closed awareness context)とは、「相互行為」の参加者たちのいずれかが、(1)(2)のいずれかを知らない場合に通用する。このとき「相互行為」の参加者たちのいずれかは、相手が知っている事柄を知らない。このとき「相互行為」の参加者たちは異なる社会的世界に属すことになる。なぜなら、何らかの事柄を知らない参加者は、その事柄について無自覚であり、それゆえその事柄が示す社会的世界に参加できないからだ。例えば末期ガンであることを患者が知らない場合、そしてその文脈を維持する場合、「相互行為」に参加する看護士や医師、家族は、慎重に行為をコントロールしなくてはならない。逆にある人が自分のパーソナルなアイデンティティを構成する集合的アイデンティティをパッシングするとき、その人は行為を慎重にコントロールしなくてはならない。

 つまり、「多元的に構造化された相互行為(ないし過程)」とは、オープン自覚文脈と閉鎖自覚文脈を両極とした「浮き沈み」のプロセスである[18]。すなわち、「相互行為」に参加しているパーソナルな行為者たちが互いに自覚的に複数の社会的世界を表象し、かつ互いにそのことを自覚しているとき、それらの複数の社会的世界は「表面に浮かび上がっている」(=オープン自覚文脈)。このときその参加者たちは、「表面に浮かびあがった」複数の社会的世界を包含する共通の社会的世界に「相互行為」において参加している。反対に、「相互行為」のある参加者(たち)が自覚する何らかの社会的世界が、他の参加者(たち)にとって無自覚な場合、その社会的世界は「沈んでいる」(=閉鎖自覚文脈)。このときその社会的世界について自覚的/無自覚的な参加者たちは、「相互行為」において異なる世界の住人となるのである。

 

3.結論

 

3-1.まとめにかえて――「多元的相互行為論」再考

 本報告で述べられたことをまとめよう。ブルーマーは、「シンボリックな相互行為」に着目し、「非シンボリックな相互行為」を看過したために、「有意味シンボル」と「シンボリックな相互行為」との間に矛盾を抱えてしまった。ストラウスはその双方が現れる「相互行為」に着目し、かつ「相互行為」と社会的世界を不可分なものとして捉えつつも、それらを別の論理として位置づけた。これにより「相互行為」には不可避的に多様な社会的世界が現れることになる。またパーソナルな行為者たちは無自覚的な行為に対して自覚的に反応したり、逆に自覚的な行為に無自覚的に反応したりするために、「相互行為」には流動性が生じる。これが「多元的相互行為論」の多元性と流動性という特質である[19]。そして自覚文脈は、「相互行為」の参加者たちが――自覚的であれ無自覚的であれ――表象する複数の社会的世界の「浮き沈み」のプロセスを説明するものであった。

 

3-2.結びにかえて――ストラウス「多元的相互行為論」の現代的意義

 ストラウスによれば閉鎖、疑惑、偽り、そしてオープンという四つの自覚文脈はどれも本来的に安定しているわけではないという(Glaser and Strauss 1964:671)。すなわち、その諸状況によって、またパーソナルな行為者によって、あるいは対象(論題など)によって、どの文脈が安定しているかは異なる。

 現代の日本社会において、人びとが「タブー視」する事柄は非常に多い(例えば歴史、エスニシティ、イデオロギーなど)。無自覚的に振舞うこと(=タブー視すること)により、自覚的に形成される社会的世界は正当性を有するが、それは同時に異なる社会的世界の住人への無自覚的行為を生み出す(=閉鎖自覚文脈)。別言すれば、「相互行為」における共通の社会的世界(=オープン自覚文脈)からの、異なる社会的世界の住人の排除である。ストラウスが指摘したオープン自覚文脈とは、「相互行為」の参加者たちが互いに異なる複数の社会的世界を互いに自覚することにより(すなわち「相互行為」における共通の社会的世界への参加)、「調整された活動」を共に構築する(=「調律する」)プロセスであった[20]

「共生の作法」(井上1986)の重要性が謳われてから久しい。異質な他者との共生(conviviality)を経験的・現実的レベルで模索するためには、経験的世界に生きる人びとの相互行為を分析するための視角が必要である。ストラウスの「多元的相互行為論」は、異なる社会的世界の住人たちが、「相互行為」においてそれらを包含する共通の社会的世界へ参加することにより、互いに自覚的に(別言すれば「互いの違いを認めつつ」)「調整された活動」を構築する可能性を指摘する[21]。果たしてその相互行為秩序とはいかなるものか。あるいはいかにそれを形成していくのか。これを探究することが報告者の大きな課題である。

 

【文献リスト】

Blumer, H.G., 1986[1969], Symbolic Interactionsim, University of California Press.(=1991、後藤将之訳、『シンボリック相互作用論』、勁草書房。)

Denzin, N.K., 1994, Postpragmatism: Beyond Dewy and Mead, Symbolic Interaction, 17(4):453-63.

藤沢三佳、1989、「A.ストラウスの多元的相互作用論検討」、『ソシオロジ』第333号、社会学研究会、79-94

Glaser B.G., and A.L. Strauss, 1964, Awareness Contexts and Social Interaction, American Sociological Review, Vol.29, No.5, 669-79.

――――,1965, Awareness of Dying, Aldine Publishing Company.(1988、木下康仁訳、『死のアウェアネス理論と看護』、医学書院。)

Goffman, E., 1959, The Presentation of Self in Everyday life, Anchor Books.(=1995、石黒毅訳、『行為と演技』、誠信書房。)

井上達夫、1986、『共生の作法』、創文社。

桑原 司、2000、「シンボリック相互作用論序説(1)」、『経済学論集』第52号、165-210

Kuwabara,T., and K.Yamaguchi., 2007, An Introduction to the Sociological Perspective of Symbolic Interactionism, 『経済学論集』第67号、1-9

那須 壽、1995、「意味・シンボル・相互作用」、船津衛・宝月誠編、『シンボリック相互作用論の世界』,恒星社厚生閣、89-100

Strauss, A.L., 1993, Continual Permutations of Action, Aldine de Gruyter.

―――― 1997[1959] Mirrors and Masks, Transaction.(2001、片桐雅隆監訳、『鏡と仮面』、世界思想社。)

山口健一、2005、「『鏡と仮面』におけるパーソナルな行為者の名づけと用語法の『共有』」、『社会学研究』第78号、119-136

――――、2006、「社会的世界と相互行為の接点」、『社会学年報』第35号、99-119

――――、2007a、「A.ストラウスにおけるアイデンティティの変容と持続性」、『社会学年報』第36号、115-134

――――、2007b、「A・ストラウスの社会的世界論における『混交』の論理」、『社会学研究』第82(近刊)



[1] 私見を述べれば、この「相互行為」への着目・分析の難しさが、SI的な調査研究の行いづらさへとつながり、ひいては日本においてSIを分析視角として用いた調査研究がほとんど見られないことへとつながっているように思われる。

[2] 『鏡と仮面』は片桐監訳に依拠したが変更した箇所がある。引用の際M&Mと表記した。

[3] ストラウスは意図的と意識的をほぼ同義として扱っている(M&M:60=2001:75)

[4] パーソナルな行為者がシンボル的に自覚しつつも、非意図的に行為がなされる場合がある。ストラウスにおいてそれは習慣的な状況において生じる(Strauss1993:23,113-116)。この点を踏まえて自覚的な行為と無自覚的な行為を定義する必要があったが、本報告には間に合わなかった。この点については今後の課題としたい。

[5] ここで指摘しておきたいのは、ストラウスにおいて観察者は、ある状況においてパーソナルな行為者たちが相互行為するとき、その行為者たちの意識下に何があるのかを識別できないことである。なぜならそのとき観察者が観察できるのはその行為者の「外的な行為(overt action)」であり、「内的な行為(covert action)(再帰的行為を含む)は不可視だからだ(Strauss 1993:22-3)。したがって自覚的/無自覚的な行為とは、パーソナルな行為者たちが行為するとき、その行為者の意識下において何らかの対象を知覚ないし自覚しているか否かを示す区分ではなく、観察上の理論的前提としての区分であり、相互行為を分析するための区分である。なお、これは相互行為において互いに「ブラック・ボックス」の関係にあることを別言したものである(Kuwabara and Yamaguchi 2007)

[6] とはいえ、白昼夢のようにほとんど自覚的ではない自己相互行為もある(Strauss 1993: 37-8)。またストラウスによれば、再帰的行為における自己に対する自覚は、ほとんど明示的から、かろうじて明示的な場合まで幅があるという(Strauss1993:25-6)

[7] ストラウスにおいて、相互行為には自覚的/無自覚的な行為の双方が現れ、かつそれらに対してパーソナルな行為者たちは自覚的にも無自覚的にも反応するために、多様なシンボルが社会的世界に持ち込まれることになる。これが社会的世界における「混交(intersecting)」を引き起こすことになる。すなわち、その世界の「正当性のある秩序(legitimated order)」をめぐって、その世界が変容していく(山口2007b)。この点は、ブルーマーの分析視角における矛盾に対する一応の回答になるだろう。しかし本報告は、そのような社会的世界が現れる「相互行為」の論理に焦点がある。

[8] グレイザー&ストラウス(1964)においてもゴフマン(1959)をとりあげている。また、本報告において『行為と演技』は、石黒訳に主に依拠したが変更した箇所がある。

[9] ゴフマン(1959:2=1995:2)におけるgive表出とgive off表出は、ストラウスでいうところの自覚的な行為と無自覚的な行為に相当すると考えられる。

[10] この査定もまた、パーソナルな行為者たちがその状況において意識下で行っていることを説明するためのものではない。あくまで、その行為者たちが行う相互行為を分析するための理論的諸前提であり、分析的諸概念である。また、ストラウスにおいてこの査定は、「他者の現前」におけるパーソナルな行為者たちによってその精度が異なるという(M&M:612001:76)

[11] またストラウスは次のようにもいう。「大事なのは、相互行為が社会学的な意味で『構造化されている』ことを理解することである」(M&M:76-7=2001:94)

[12] 社会的世界の論理については、山口(2007b)が「混交」の側面に着目しつつ展開している。

[13] これは「相互行為」において複数の「共有された」シンボル(ないし有意味シンボル)を参加者たちが有している状態である。有意味シンボルとは「たとえば音声言語が相手に聞こえるのと同様に自分にも聞こえるように――ある動作や身振りが、相手に起こすのと同様の反応をその当の行為者にも起こす」(那須1995:94)ものである。

[14] もちろん、2-2で述べたように「外的なもの」による「偶然性」によっても流動していくが、ここでは「相互行為」それ自体によって生じる流動性について述べている。

[15] ストラウスは「文脈」という用語によって、相互行為よりも大きな包含する秩序の構造的単位を意味している(Glaser and Strauss1964:670)

[16] ストラウスは、「相互行為」の範囲内において、逆に「無自覚(unawareness)」文脈とでも呼べる状況を設定している。ストラウスによれば、それは相互行為者たちが互いに他者のアイデンティティを知らず、また他者の目に映ったアイデンティティも知らないとき(=アイデンティティの査定ができないとき)に通用する。これは例えば暗闇の通りでお互いに会い、通りすぎるような場合である。そのときの相互行為者たちの最初の課題は、相互行為を容易にするために「無自覚」文脈を変容させることであるという(Glaser and Strauss 1964:678-9)

[17]ここでいう共通の社会的世界とは、ある状況における「相互行為」において複数の「共有された」シンボル(ないし「有意味シンボル」)を参加者たちが同等に有している状態である。ストラウスはミードの相互行為についての議論やブルーマーの「シンボリックな相互行為」をオープン自覚文脈に位置づけている一方、ゴフマン(1959)の議論を(全てではないものの)閉鎖自覚文脈に位置づけている(Glaser and Strauss 1964:670;1965=1988:290)

[18] その「浮き沈み」のプロセスにおいて、疑惑文脈(a suspicious context)と偽りの文脈(a pretence context)が含まれる。

[19] もちろんこれ以外にも「外的なるもの」による流動性の可能性もある。

[20] その一方でストラウスは、オープン自覚文脈においてそのようにならない可能性も指摘している(Glaser and Strauss 1965=1988:81-109)

[21] これは、井上が「会話」と「コミュニケーション」を分け、前者に「共生の作法」の可能性を求めたのとは異なる立場だといえるだろう。誤解を恐れずに言えば、井上における「会話」はストラウスにおける閉鎖自覚文脈に位置づけられるのではないか。むしろ、ストラウスにおけるオープン自覚文脈とは、井上が峻別した「コミュニケーション」において「会話」を成立させようとする試み、とでも言うことができるかもしれない。この点についてはさらなる考察が必要である。