横井軍平氏は、ゲームボーイなどを開発した任天堂の技術者。その海外のゲームファンにも知られている伝説の開発者が、実は任天堂を退社した直後に『文藝春秋』に手記を寄せていた。横井氏は、この記事の掲載の約1年後に交通事故で帰らぬ人となったが、いまもその思想は受け継がれている。
任天堂アーカイブプロジェクト代表・山崎功氏による解説「横井氏が任天堂に残した、玩具メーカーならではのDNA」も末尾に掲載。
出典:「文藝春秋」1996年11月号
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任天堂退社前夜の出来事
横井氏の評伝『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』(牧野武文・著)さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。
もっとも、新しい門出に、いきなり洪水のような報道が襲ってきました。
退社する前日に、『日本経済新聞』が私のことを大々的に報じたのです。
いわく「ゲームボーイを開発した功労者が退社した。鳴り物入りで宣伝した『バーチャルボーイ』失敗の責任をとったものだ」
いわく「『NINTENDO64』が予想以上に売れていないため、任天堂の利益が大幅に減っている」
二つの「事実」を並べて読むと、読者には任天堂が大変な苦境に陥り、まるで内紛でも起こっているかのように思えるでしょう。
実際には、私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。
前々から、55歳になったら、独立したいと考えていました。
ですから、任天堂を恨んだり、憎んだりといった感情は全くと言っていいほどありません。また『NINTENDO64』は、直接私の担当ではありませんから、私の退社と結び付けるべきことでもありません。利益大幅減といっても、今までの利益が大きすぎただけで、これほど大きく報じるべきことなのか疑問に思います。
しかし、その一方で、世間の任天堂という企業に対する関心の高さにはびっくりしました。新聞や雑誌が次々に取材に来ましたし、講演の依頼もたくさん頂きました。
その過程のなかで、世間の人々が任天堂と私のどの部分に興味を持たれているかもわかってきたような気がします。
・一体、任天堂成功の秘密は何なのか?
・これからも、あのサクセスストーリーは続くのか?
・会社が大きくなるといろんな歪みがでてくるのではないか?
――たしかに、それはどの企業の経営者も、あるいは、どんな立場のサラリーマンでも興味のあることだと思います。実際、この30年間の任天堂で起きたことは「奇跡」でした。ですから、私がこの30年任天堂で何をし、何を考えてきたか、を素直に話せば、こうした疑問にお答えできるように思います。
初めに申し上げておきたいのですが、私が辞めた瞬間、「山内社長のワンマン体制に嫌気がさした」ととる人が大勢いました。しかし、私は任天堂がここまで大きくなったのは、実はワンマン体制のおかげだと思っています。
山内社長のワンマン体制が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を生んだ
ワンマン体制=悪という感覚でとらえる人は多いのですが、商品開発の場合そうともいえません。
例えば任天堂の転機となった、「ゲーム・アンド・ウォッチ」。これは私が開発したものですが、ワンマン体制だからこそ生まれた商品だといえるのです。
あれは私が、38歳の時でした。電卓タイプのゲームで、大人向けの手の中に隠れるような薄っぺらいものを作りたいという提案をしたのですが、社長が興味を示して「すぐにやれ」ということで開発がスタートしました。
しかし社内の声は冷たいものでした。営業も宣伝も半数以上が「そんなもの売れるものか」という否定的な意見なのです。
つまり、普通の会社組織のように私が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を提案し、営業会議で検討して、重役会に諮ってという手続きを経ていたら、必ずどこかで潰されていた商品だったのです。
ところが社長がやれと言っているものだから、誰も反対できない。
私は財務面のことはよく知らないのですが、「ゲーム・アンド・ウォッチ」の発売前、任天堂は70億とも80億とも言われる借金があったそうです。それが「ゲーム・アンド・ウォッチ」を売り出して1年後には借金を全部返済し、40億ぐらいの銀行預金ができました。発売前は開発者の私ですら10万個売れたら多少は会社の足しになるかなという程度の考えだったものが、結果的には5000万個近く売れてしまった。
ところが、社長はこのわずかに溜まったプラス分をファミコンにドーンと投資した。それが成功したのですから、勝負師といえるでしょう。私だって、最初それを聞いた時は、せっかくプラスになったのにそこまでしなくても……という気がしたほどです。
つまり、馬券を1枚買ったらわずかに儲かった。それを全部次の馬に注ぎ込んだらまた当たったということが何度も起こって、任天堂が世界に名前を轟かすような企業になったのですから、これは社長のワンマン体制ぬきには語れません。
任天堂入社のきっかけとは
その間、私にとっても、一応組織はあるが、あってないようなものという時代が続きました。
なにしろ、私自身が社長の直接の部下という気持ちだったのです。組織的には、私のいた開発部は製造本部の1部門で、私と社長の間には製造本部長である常務が1人います。けれども実際は、社長は直接私に開発の話をするし、私は私の直属の上司である常務とはほとんど開発の話はしない。実質上、社長が開発本部長であり、開発部は製造本部とは別の部隊であるという状態だったのです。
私の意見が役員を通り越して社長に直接に繫がりますから、ナンバーツーのような感覚を持つときもありました。これは私だけのことではなく、社員みんなが持っている感覚だったと思います。
大体、私が任天堂に入社したこと自体が、いい加減な動機からでした。
私は昭和40年に任天堂に入社したのですが、同志社大学の電気工学科を卒業したものの、恥ずかしながら成績は下から数えたほうが早いぐらい。就職活動をしても悉く落とされてしまった。
そこでたまたまみつけたのが、任天堂からの電気工学科生の募集です。任天堂というとトランプや花札を作っている会社なのに、何で電気工学科の人間が必要なんだろうという疑問も感じましたが、ともかく京都にあって家から通えるというところが気に入って受けたら、採用通知がきました。
退屈しのぎに玩具づくり
出社してみると、部署は工務課。トランプや花札を製造する機械のメンテナンスをやる仕事です。当時、新しい法律ができて、30KVA以上の受電設備を有する企業は電気主任技術者を置かねばならないことになったそうなのですが、どうも、そのために採用されたようです。
ところが、電気管理というのは退屈で仕方がない。もともと私は物作りが好きだったのですが、会社には立派な旋盤とか彫刻機といった機械が揃っている。そこで退屈凌ぎにいろんな玩具をつくって遊んでいたのです。
ある時、社長が私の作った玩具を見て「お前、それを持ってちょっと役員室へ来い」と言う。てっきり怒られると思ってついて行ったら、いきなり社長に「それを商品化して売りたい」と言われました。
今、考えてみると、それが私の人生のはじまりであり、ある意味では、「トランプ、花札の任天堂」が「世界の任天堂」に変わる最初の一歩だったかもしれません。
入社してまだ1年も経たない、しかも玩具を商品化した経験もなければノウハウもない私が、見よう見真似で、金型の設計からどこで成形して組み立てるかということまでやった。
それが『ウルトラハンド』という名前の商品になりました。
いわゆるマジックハンドですが、当時東京オリンピックの名残りでウルトラCという言葉が流行っていたので、社長が『ウルトラハンド』という名前を考えたのです。
これが当たりました。なんと140万個も売れたのです。玩具は10万個売れたら大ヒットだと言われていた時代ですから、どれほどのヒットかおわかりいただけるでしょう。
たった2人でスタートした開発課
そこで社長が、私のために開発課というのを作ってくれました。ところが私はまだ入社2年目の単なる開発課員。技術者も私1人。しかし、課ができれば経理関係のことも見なきゃならない、というわけでつけてくれたのがいまの広報室長で取締役の今西氏です。
たった2人でスタートした開発課ですが、あの頃を楽しく思い出します。
ピンポン玉を放り出してバッティングセンターのようにバットで打つ「ウルトラマシン」を開発したり、光線銃を作ったり。
たった2人の開発課が「トランプの任天堂」を変えてゆくことになりました。
基本的には、その後の「奇跡」も同じ構造から生まれています。
大ヒットした「ゲームボーイ」はもちろんのこと、「バーチャルボーイ」の開発の時もそうでした。最初は立体映像のゲームが作れないかというアイデアだけがあったのです。立体で見えるディスプレイをもう少し工夫したら何かできるんじゃないかという、非常に曖昧なアイデアでした。その実験をするには5,600万円のお金がいるので社長のところへ行ったのです。
ところが社長はせっかちで、どんなものがいくらでできるのかまで聞いてくる。
慌てて、閃くままにこうなってああなってと説明したら、社長が乗り気になって、600万円では足りないだろう、そのディスプレイを作ってるやつの権利も買い取れということになり、その場で600万円の予算案が一気に2億円になってしまいました。
そんなことを続けて30年が経ちました。30年前の任天堂に比べると、変わってきたものも感じます。
それは、いわゆる「大企業病」というべきものかもしれません。新しく入ってくる若い人に昔のことを話してもみんなびっくりします。