スクリーン越しの「レクター博士」を私が描写したように、じつは実際に会って得られる情報はとても多い。その大部分は視覚から得られるもので、初対面で無意識に脳がキャッチした違和感は「なんか嫌だな」といったような直感となって現れる。その前に、ネットだけのやり取りによって、相手に本性を隠されたまま「知り合い」になってしまうと、実際に会ったときには、先入観によってそれらのセンサーは働きにくくなってしまう。だから、他人をどうにかしてやろうと考えるサイコパスにとって、今は生きやすい世の中なのだろう。
「反社会性」と「境界性」の違いは
と、ここまで「サイコパス」と書き連ねてきたが、じつは、常人とそれ以外の人を分けるうえでモノサシになると思われる精神医学の分野において、「サイコパス」という呼び名は使われないのだという。医学的には「反社会性パーソナリティ障害」という診断名に置き換わるのだ。
一方、「境界性パーソナリティ障害」という似た名称の診断もある。「過剰さ、うっとうしさ、生々しさ」をまとって「構ってほしい、認めてほしい」とアピールする、こちらもいまの世のなかで増加の一途をたどっている“困ったちゃん”たちのことだ。どちらも厄介なことは想像に難くないが、「境界性」はネットによって「反社会性」と交わり、影響を受けて、そちら側に引っぱられてしまった「反社会性」の亜種ではないかと私は考える。この「境界性」が「反社会性=サイコパス」の輪郭を、より捉えづらくしている。
だから、精神科医・春日武彦とホラー作家・平山夢明の対談をまとめた本書を通読しても、これはサイコパスだろうという概念は示せても、では、どこからが健全な精神状態の人で、どこからが健全とは言えなくて、ここからは確実に異常であるというような明確な線引きはされていないし、できないと記されている。
タイトルに「解剖学」と銘打っているだけに、メスを入れて開いた腹のなかの内臓を取り出して分けるように(失礼!)、それぞれ類型化されたサイコパスが示されることを期待して読んだのだが、肩透かしされた感があって少々がっかりした。
だが、じつはそれも当然なのだと、後になって思い直す。毎日、同じ気持ちで、平穏に、感情の起伏なく過ごせたならば、それは機械と同じだ。いや、機械だって誤作動を起こすし、故障だってする。だから昨日まではいい人だったけど、今日はあいつサイコパス寄りだよなというような事態に直面することは、けして特殊な事例ではないのかもしれない。
いまいち輪郭がはっきりとしないサイコパス像。しかし、曖昧でありながらも彼らの対話をなぞりつつ読みすすめると、サイコパスは総じて「欠落して」いると結論付けられてあった。そこが「境界性」との違いだと。
自分のうちに絶対に譲れないルールを持ち、それを貫くためなら「他人と協調しなくてもいい」ということが前提となっているから、理解されることを求めない。なるほど、譲れないルールを持つがゆえに、捨てた何か。それは、捨ててはいけないはずの倫理観とかだろうか。
さらには、人を思いどおりに動かすことに長け、支配することで悦に入るというサイコパス。大企業のトップや政治家、有名人など偉業をなした人のなかにはサイコパスが多いという説もうなずける。唯我独尊のワンマンタイプ。彼らは、しばしば思い通りに物事を動かすために、周囲が驚くほどの行動力を発揮する。