VIゼミエッセイ集

The Tragedy of King Richard the Second
~彷徨える魂~
英文4年 柴田和美 2006年1月27日提出

◆はじめに

史劇であるこの作品が、悲劇とも呼ばれ、観客の心を引きつけて離さないのは何故であろうか。それは、リチャードが、王という存在でありながら最も我々に近い位置に佇んでいるからである。リチャードは人間存在そのものの意味を突きつける。我々のこの作品では、王冠をはぎ取られる事で、「何者でもない」自由さと不自由さを得たリチャードが辿る道を見ていく。

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リチャードは、王たるその身の正統性を信じ、疑う事はない。自身は神から認められた人間であり、神の代理人である'The deputy elected by the Lord.' (III.ii.57)と断言するように、彼は神のごとく臣下のものに裁きを与え、「時」すらも彼の思うように動かす。

十年の追放期間を恩情で六年に縮められたボリングブルックは、その王の神の如き行為に、感嘆のため息を漏らす。

Bull.
How long a time lies in one little word!
Four lagging winters and four wanton springs
End in a word: such is the breath of kings. (I.iii.213-215)
(たった一言になんという長い歳月が宿ることか!重い足どりの冬が四たびと、腰の軽い春が四たび、それが一言で尽きてしまう。王の言葉とはそういうものか!)


一言で四年の歳月をなくす彼の言葉は、時の支配者とも呼ぶべき威厳を持っている。王の言葉はすなわち神の言葉であり、「時」は彼のものであるのだ。そしてまた、このような自身の「王」としての正当性と権利をこう評する。

K. Rich.
Not all the water in the rough rude sea
Can wash the balm off from anointed king;
The breath of worldly men cannot depose
The deputy elected by the Lord. (III.ii.54-57)
(荒海の水を傾け尽くしても、神の塗りたもうた聖油を王たるこの身から洗い流す事はできぬ、まして世のつねの人間どもの吐く言葉ごときで神の選びたもうたその代理人を廃止させることはできぬ。)

王家の血を受け継ぎ、正統な王として神に「選ばれた」彼は、疑問の余地をはさむことなくその権利を実行でき、神の代理人たる言葉は、神の如き重さを持つのである。彼の'breath'は、ボリングブルックが驚くように、そのような意味と重みを持つのである。

しかし必ずしも、彼が「王」であり「神」である資質を身につけているかと言えば、そうではない。ジョン・オブ・ゴーントが「イングランドの地主にすぎぬ、王ではなく」'Landlord of England art thou now, not king'(II.i.112)と苦言を呈するように、「王」という地位にはついているものの、実質を伴っていない。「王」とは名ばかりで、リチャードは、その代々受け継いできた「王」の名によりかかり、甘んじているだけなのである。その証拠に、ボリングブルックとの圧倒的に不利な戦いを前に、主導者「王」であるリチャードが最も怖じ気づき、混乱している。さらには臣下に励まされ正気を取り戻す始末である。

Aum.
Confort, my liege, remember who you are.
K.Rich.
I had forgot myself, am I not king?
Awake, thou coward majesty! thou sleepest.
Is not the king's name twenty thousand names?
Arm, arm, my name! (III.ii.83-86)
(しっかりしてください、ご自分をお忘れなく。)
(自分を忘れていた。おれは王ではないか、目を覚ませ、臆病な国王、いつまで眠っておる!王の名は、二万の兵士の名前に匹敵するものではないか。武器をとれ、俺の名よ!)

彼は王という'name'の持つ力を思いだし、自らを奮い立たせる。しかしそれはあくまで「王」という名によりかかり、「王」という地位の持つ力に頼っているに過ぎない。'Arm, arm, my name!'という言葉は、そのことを如実に表している。彼が自らを奮い立たせるのは、王としての自負や威厳からではなく、自らの外側にある、「王」という「名前」の力によってのみなのである。

彼はジョン・オブ・ゴーントの死後、正統な跡取りであるボリングブルックに与えられるはずであった財産や地位を、その権限によって没収してしまう。ボリングブルックの叔父ヨークは、甥の不運に堪えきれず、王に向かって思わず感情をぶつける。

York.
Take Herford's rights away, and take from Time
His charters and his customary rights;
Let not to-morrow then ensue to-day;
Be not thyself; for how art thou a king
But by fair sequence and succession? (II.i.195-199)
(ヘリフォードからその権利を召し上げられることは、「時」からその固有の特権をとりあげられることだ、明日という日を今日の後に続いてこさせないことだ。そうなればあなたもあなたご自身ではなくなられよう、王になられたのは、時の正当な連続によってなのだから。)

昨日から今日、今日から明日に続く「時」をボリングブルックから取り上げる事によって、自らの時の正当な連続をも否定してしまうことになる、とヨークは弾劾する。この悲痛な訴えは王の耳には入ることはなく、財産と地位は没収されてしまうのであるが、まもなく、このヨークの言葉が、実現してしまう時が訪れる。ボリングブルックは王を打倒することを決意し、臣下のほとんどは彼に寝返り、王に反旗をひるがえすこととなるのだ。追いつめられた王は、王冠をボリングブルックに渡す事となる。ヨークの言葉通り、「時」の正当性をその手で否定したリチャードは、それにより時の正当な連続からくる自身の「王」たる権利を奪われる事になるのである。実質をともなわず、「時の正当な連続」でしか、「王」でありえなかった彼は、易々と、その名をボリングブルックに引き渡すはめになるのであった。

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リチャードは、もはやボリングブルックに屈服せざるを得ないと確信すると、それまで顧みもしなかった「王」という存在そのものを、自身の存在そのものを強く意識する。

K.Rich.
―for within the hollow crown
That rounds the mortal temples of a king
Keeps Death his court, and there the antic sits,
Scoffing his state and grinning at his pomp,
Allowing him a breath, a little scene, (III.iii.160-164)
(死すべき人間にすぎぬ王のこめかみをとりまいているうつろな王冠の中では、死神という道化師めが支配権を握っており、王の威光を馬鹿にし、王の栄華を嘲笑っておるのだ。そして束の間の時を与えて、一幕芝居を演じさせる…)

ここで、彼の「時」を操る神の如き'breath'は、死に神に許された束の間の'breath'に変貌する。「王」という名をはぎ取られてしまえば、もはや無限な存在ではなく、死神に操られる有限な存在であることを悟るのだ。

'hollow crown'(うつろな王冠)という語が、彼の意識を如実に表している。「王」という名と権力を奪われ'I have no name, no title'(IV.i.255)、自らの存在意義を見いだす事の出来ない彼は、「死神という道化師」のもと、「一幕芝居を演じる」虚ろな存在として自身の姿を見いだす。名も権力も奪われ、何者でもなくなった彼は、自身を演技する事で、その存在を、かろうじて世界に繋ぎ止めようとしているのである。彼はこの台詞を吐いた瞬間から、命を落とすその最後の瞬間まで、自らを演技し続ける。退位させられる「王」を巧みに演じてみせるのである。それは、「王」としての存在に固執し、頑なにその威厳を守ろうとするのではない。自らを、「虚ろな王冠」をかぶった「王」として演技する事で、今日も明日もそして過去さえ失ってしまた自身を、「今」という時の中に存在せしめ、繋ぎ止めようとしているのである。

K.Rich.
But for the concord of my state and time
Had not an ear to hear my true time broke.
I wasted time, and now doth time waste me;
For now hath time made me his numb'ring clock: (V.v.47-50)
(国の政治という音楽にかけては、狂った調子を聞き分ける耳がなかった。そのため調子が乱れ、時を浪費したため、いま時が俺を浪費しておる。時は俺を時計にし、時を数えさせておるのだ。)

かつては「時」の支配者とも呼べるほどの威光を振りかざしていた彼であるが、今度は反対に、その「時」に支配されている事を知る。そんな彼が「時」の支配から抜け出す為に見いだしたのが、「演じる」ということであった。自らを演技する事で、「今」という瞬間に生き、そこに居場所を見つけるのである。「時」そのものである「今」は唯一その「時」の支配を受けない。むしろ「時」そのものであるゆえに、その場を支配する力を持つ。そうして演じることで彼そのものが'numb'ring clock'へと成り代わるのである。さらに彼は、

K.Rich. So sighs, and tears, and graons
Show minutes, times, and hours; (V.v.57-58)
(ため息と、涙と、うめき声が、分を刻み、時をはかり、時間を告げている。)

と続ける。一度は地に落ちた彼の'breath'が、この「今」という束の間の時のなかで、もう一度、息を吹き返す。彼は自らを悲劇の王として演じることで、「時」の支配から逃れ、「今」に自分の姿を刻みつけることができたのだ。

冠をボリングブルックに引き渡すその時も、舞台を支配しているのは、彼ではなく、リチャードである。

K.Rich.
My crown I am, but still my griefs are mine.
You may glories and my state depose,
But not my griefs; still am I king of those. (IV.i.190-193)
(この王冠はよろこんで譲るが、この悲しみはまだ私のものだ。私の栄誉、私の権力はあんたの自由になっても、私の悲しみはそうはいかぬ、私はまだ悲しみの王だ。)

'am I king of those'と自身を表現するように、彼は自らを「悲しみの王」として意識しそれを演じることで、ボリングブルックの支配からも、「時」の支配からも抜け出して、自由に「今」という舞台を支配する。彼は自らの呼び名さえなくし、何者でもなくなったがゆえに、何者にでもなる自由と「今」を支配する力を手に入れたのである。

しかし彼はまた、悲しみの中から自由を手に入れはいいものの、その演技に満足することはない。彼は鏡を覗き込んだ先の、以前と変わらぬはかない栄光が輝く顔'A brittle glory shineth in this face.'(IV.i.287)に失望する。深い皺も苦悩も刻まれていない顔に、中身を伴わない、虚ろな入れ物としての自分をそこに見るからである。彼はそのような自身を評してこう語る。

K.Rich.
Thus play I in one person many people
And none contented. Sometimes am I king;
Then treasons make me wish myself a bagger,
And so Iam. Then crushing penury
Persuades me I was better when a king;
Then am I king'd again, and by and by
Think that I am unking'd by Bullingbrook,
And straight am nothing. But what e'er I be,
Nor I, nor any man that but man is,
With nothing shall be pleas'd, till he eas'd
With being nothing. (V.v.31-41)
(こうしておれは、一人で大勢の人間を演じても、どの役にも満足することはない。ときには王になる、すると謀反に出会って、乞食になりたいと思う。そこで乞食になる、すると貧窮にうちひしがれて、王であったときのほうがまだましだったと思う。ところがそのうちにボリングブルックのために王位を奪われて、なにものでもなくなってしまう。なんになろうと、おれは、いやだれでも、ただの人間であるかぎりは、なにものにも満足しないのだ、おのれ自身がなにものでもなくなって安心するまでは。)


何者になろうと、何者にもなれない悲しみが、彼を深く突き刺す。有限な存在である人間が生きているかぎり持ち続ける、「何者でもない」自由さと、それゆえの不自由さを抱いて、一人牢獄で囁くのであった。

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K.Rich.
Down, down I come, like glist'ring Phaeton,
Wanting the manage of unruly jades.(III.iii.178-180)
(おりよう、おりよう、太陽神の子フェイトンのように暴れ馬を御しかねて、天から地へまっさかさまにな。)


城の庭にいるボリングブルックらを上から見据え、身に残されたわずかな威厳を振り絞ってリチャードは、「王」を演じる。「庭に降りる」というボリングブルックへの屈服の動作までも、彼は劇的に演出する。それは彼の意地であり、存在証明でもある。支配者であった彼が庭に降りる時、彼は支配される者へと変わる。それは、無限たる「王」という存在から、「時に浪費される」有限な存在である一人の人間へと墜ちる瞬間でもある。彼は庭に降り、「何者でもない」一個の有限で虚ろな存在へとその姿を変える。そしてまた、彼が栄枯盛衰の時の流れに屈服する様子が、上から下へ降りるという動作に重ねられる。

そしてリチャードは騎士エクストンの勝手な思い込みにより牢獄の中で殺されるに至るのであるが、この死によって、彼は「永遠」を得ることになる。

K.Rich.
Mount, mount, my soul! thy seat is up on high,
Whilst my gross flesh sinks downward, here to die. (V.v. 112-113)
(のぼれ、のぼれ、わが魂!お前の座は天上にある、卑しい肉体はここで死に、地下に沈むこととなる。)

彼は演じることを通して、「今」を獲得し、その度「時」の支配から逃れることが出来たが、その肉体を持つ限り、「何者にもなり得ない」苦しみを拭うことは出来なかった。しかし「死」を迎えることによって彼は、その苦しみを伴う肉体を脱ぎ捨て、なにものの支配からも逃れることができたのである。「時に浪費される」有限な存在に墜ちたはずの彼が、ここで再び、天上に昇る。「時」と「苦しみ」のしもべであった肉体は地下深く沈み、その魂は空高く舞い上がる。演じることによって自らの時を刻んだ彼であったが、「死」を迎えることによって、彼の刻む「今」は永遠となる。その息で時を刻む'numb'ring clock'は、「死」によって秒針のない時計に成るのである。彼は永遠となることで「時」の支配からも、肉体の支配からも抜け出すことが出来た。そうして「何者でもない」ことの苦悩と自由の間を旅してきたリチャードの彷徨える魂は、「死」をもって永遠の安らぎを得るのである。

一方で、リチャードを倒し、奪われた地位以上の地位を手に入れたボリングブルックは、リチャードと同じ道を辿っていることに気づく。彼のもとでは再び、自身が昔おこしたような揉め事が起きている。リチャードとは反対に「何者でもない」存在から上り詰め、リチャードの傍若無人な姿を反面教師にして、王冠を手にした彼であるが、清廉潔白だったその姿は、血の洗礼を浴びて、欲深い人物へと変わる。王位など決して望んでいなかった彼が、王位をリチャードからもぎ取るようにして奪ったのである。

K. Hen.
Lords, I protest my soul is full of woe
That blood should sprinkle me to make me grow. (V.vi.45-46)
(今わたしの魂は悲しみでいっぱいだ。この身の栄達の為に、この身は血の洗礼を浴びたのだ。)

彼は王冠を手にしたことで、その身を嘆く。その姿に、リチャードの「ただの人間であるかぎりは、何者にも満足しないのだ」という台詞が響いてくる。彼が抱いた王冠もまた、'hollow crown'であるのだ。