
←いつも
応援クリックをありがとうございます。
最近の歴史教科書では、鎌倉幕府の成立は1185年、つまり源平合戦で壇ノ浦の戦いが行われた年が鎌倉幕府の成立だと教えているのだそうです。
どこぞの在日系の学者が、彼ら特有のファンタジー史観で「歴史を書き換えた」ものの一環ですが、まったく日本の歴史をわかっていない馬鹿者の行いと断じさせていただきます。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)◆
【お知らせ】◆
9月17日(日)13:30
第43回 倭塾 公開講座(古事記) 9月21日(木)13:00
埼玉縣護國神社奉納揮毫10月 1日(日)11:00
日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)10月15日(日)13:30
古事記に学ぶ25の経営学10月26日(木)18:30
第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)11月 3日(金・文化の日)
第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)11月 5日(日)
第45回 倭塾 公開講座11月25日(土)
第20回 百人一首塾 *****
「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」
子供の頃、年号の暗記で、このように記憶した方は多いかと思います。
鎌倉幕府の成立といえば、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年がそのはじまり、と私たちは学校で教わりました。
ところが最近の歴史教科書では、鎌倉幕府の成立は1185年、つまり源平合戦で壇ノ浦の戦いが行われた年が鎌倉幕府の成立だと教えているのだそうです。
どこぞの在日系の学者が、彼ら特有のファンタジー史観で「歴史を書き換えた」ものの一環ですが、まったく日本の歴史をわかっていない馬鹿者の行いと断じさせていただきます。
なるほど源頼朝は、平氏のように朝廷に拠らず、鎌倉幕府という新しい武家政権を樹立しまし、この時代における国内最強の武士団を保持していましたが、朝廷そのものの打倒などは露ほども思わず、天皇から、天皇の部下である征夷大将軍に任命していただき、またそうすることで天皇によって政権の正統性を承認してもらっています。
このことは頼朝が、天皇を国の中心とした聖徳太子の国作りの大方針を継承したということです。
そしてこの後、700年ほど続く武士の政治が、すべてこの方針を継承したことによって、日本は世界に類例のない国家の姿を今日まで伝えています。
そしてこのことは、我が国が武力による革命で、新しい王朝や国家を樹立した支那や西洋のやり方を完全否定したことを意味します。
つまり頼朝の行動は、武家政権の樹立を、よその国々のような新国家樹立のうような形をとらず、あくまで政権交代の枠組みを保持したというところに、大きな意味があるのです。
つまり、鎌倉幕府の誕生は、実は、日本の国のカタチを学ぶ上で、とても重要な意味を持つものです。
◆youtubeの動画サイトをはじめました。↓下のバナーをクリックするとチャンネルに飛びます↓

↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
新しい動画がアップされました!◆
『ねずさんと語る古事記・参』絶賛発売中!!

受験勉強のための年号暗記と、歴史の流れの勉強はイコールではないことを、日本人ならば肝に銘じるべきであることを示す指摘と思います。
1185年は、守護と地頭を設置して政治と警察の権利を勅許された年です。1180年以降には領地支配機構、司法機構などが徐々に構築されていくので、勅許が明らかであり政治体制が決定した1185年を事実上の幕府の成立としたのでしょう。形式的には1192年の征夷大将軍に任ぜられた時点となりますが、そのような年号の推移は後付の定義に過ぎません。
判官贔屓で義経好きな日本人が多いですが、私は源頼朝公を尊敬する気持ちが強くあります。一つは天皇に対する尊崇の念の篤い事。一つは京都の公家に飲み込まれずに、武家政権を確立した事。 一つは神仏を敬い、平家のように敵方の信仰する神社仏閣を焼いたり破壊する事を厳しく戒めた事です。 天皇を神聖な権威者におき、権力武力(ウシハク)は、その天皇の承認の元、行使できるのだとの形を明確に打ち出したのは、ねず先生の仰るように鎌倉幕府が始めだと想います。
源頼朝公は源氏の正統な棟梁との自負心だけでなく、熱田大宮司の娘を母に持つ事に誇りを持っておられました。それ故に、大神官の天皇から親任を頂いて初めて征夷大将軍が武力(権力) ウシハクを行使する事ができる形を明確に打ち出されたのだと想います。